(霊山勝海和上のお話)
『御消息第四通』に、
「聖人の御弟子にて候らえども、様々に義をも言い換えなどして、身も迷い、人をも惑わかし合うて候うめり。浅ましきことにて候うなり。京にも多く迷ひ合うて候うめり。田舎はさこそ候らわめ。」
と述べられていることからすると、当時既に師法然の念仏往生の義が種々に誤り伝えられていたに違いない。
吉水の草庵で僅か7年の短い年月ではあったが、法然の殊遇を受け、数多ある門下の中で特に『選択本願念仏集』の書写を許され、法然自ら内題、六字名号、法名の書き加えをされたこと、また師の真影を図画することをも許された事情を、「師教の恩厚」「悲喜の涙を抑えて」と記している。即ち、このように師資法義相伝した親鸞にとっては、これら念仏往生の異義、異計は黙示することのできない痛恨事であったに違いない。親鸞の書簡に、
「大師聖人の仰せに候らいき」
「聖人の仰せごとありき」
「故法然聖人は……と候らいしことを確かに承り候う」
等と師法然の言行をもって法義解説や異義を破る根拠としていることが多い。『恵信尼文書』や『歎異抄』によって知る、「聖人の常の仰せ」の中にも、法門の根拠を師法然の言行に求めるところが散在している。もちろん、親鸞教義体系の上から言うと浄土三部経典に根拠を置き、七祖の論釈によって教義が組織づけられるのであるが、親鸞晩年の社会的事情からすると、法然の真の継承者としての立場こそ最重要であったろう。
「大師聖人の仰せに候らいき」
「善導の御釈実ならば法然の仰せ空言ならんや。法然の仰せ実ならば、親鸞が申す旨またもって空しからず候う」
「たとい法然聖人に剥かされ参らせて、念仏して地獄に堕ちたりとも更に後悔すべからず候う」
「ただ念仏して弥陀に助け参らすべしと、善き人の仰せを被りて信ずる外に別の子細なきなり」というところに、法然の念仏往生の法義を相伝する真の継承者としての強烈な自信を読み取ることができるのである。
『西方指南抄』は法然の言行を集めた最初期の語録である。この書は1256年(親鸞84歳)10月から翌年正月2日の奥書を持つ親鸞による写本が現存する最古のものである。それ以前に同書を確認することができず、また親鸞の他の著作態度と共通な面を持つところから、その編集を親鸞であろうとする親鸞編者説と、また親鸞が書写する以前に既に法然門下の他者の手によってなったもので、親鸞は晩年それを転写したのだとする親鸞転写説の二説が対立している。
『歎異抄』に語られる親鸞の言葉は親鸞独自のユニークな表現とされているが、『西方指南抄』を紐解く時、その中に『歎異抄』に語る表現の雛型の余りにも多いのに驚く。親鸞の表現の源流を法然に求めて『歎異抄』の輝きを失わせようとするのではない。親鸞の持言の中に法然の法語が脈々と生きているということ、親鸞の法然への思慕敬仰が如何ばかりのものであったかを裏づけようと意図するものに他ならない。
(霊山勝海和上のお話)
@『歎異抄』第二条
弥陀の本願実に座しまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説実に座しまさば、善導の御釈虚言し給うべからず。善導の御釈実ならば、(法然の仰せ空言ならんや。法然の仰せ実ならば)親鸞が申す旨、またもって空しかるべからず候う歟。
『西方指南抄』(しょう如坊への御消息)
すでに阿弥陀仏は願を立て、釈迦仏その願を説き、六方の諸仏その説を証誠し給える。……と、細々と善導釈し給いて候うなり。……善導また凡夫には非らず、弥陀仏の化身なり。阿弥陀仏の我が本願弘く衆生に往生せさせむ料に、仮に人に生まれて善導とは申し候うなり。その教え申せば仏説にてこそ候らえ。あなかしこ、あなかしこ、疑い思し召すまじく候う。
A『歎異抄』第三条
善人猶もて往生を遂ぐ、況や悪人をや
『西方指南抄』(大胡の太郎へのご返事)
罪を造りたる人だにも念仏して往生す、まして『法華経』など読みてまた念仏申さんは、などかは悪しかるべきと人々の申し候ろうらんことは……これは余の宗の意にてこそ候らわめ。
『西方指南抄』(大胡の太郎へのご返事)
罪を造りたる人だにも往生すれば、まして善なれば何か苦るしからんと申し候らわんこそ、むげにけきたなく覚え候う。
『西方指南抄』(浄土宗の大意)
聖道門の修業は、智慧を極めて生死を離れ、浄土門の修業は愚痴にかえりて極楽に生る。
B『歎異抄』第三条
自力作善の人は偏に他力を憑む心変えたる間、弥陀の本願に非らず。然れども、自力の心を翻して他力を憑み奉れば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
『西方指南抄』(法語十三問答)
一切の行は自力を憑むが故なり。念仏の行者は、身をば罪悪生死の凡夫と思えば、自力を憑むことなくして、ただ弥陀の願力に乗りて往生せむと願う。
C『歎異抄』第四条
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて大慈大悲心をもって、思うが如く衆生を利益するを言うべきなり。
『歎異抄』第五条
一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。何れも何れも、この順次生に仏になりて助け候うべきなり。
『西方指南抄』(鎌倉二品比丘尼へのご返事、外)
斯かる不信の衆生を思えば、過去の父母兄弟、親類なりと思い候うにも慈悲を起こして、念仏欠かで申して極楽の上品上生に参りて覚りを開き、生死にかえりて誹謗不信の人をも迎えんと善根を修して思し召すべきことにて候うなり。
『西方指南抄』(大胡の太郎へご返事)
ただ御身一つに、先ず善く欲往生をも願い、念仏をも励ませ給いて位高く往生して、急ぎ還り来りて人をも導き迎えんと思し召すべく候う。
『御消息』(『法然全集』所収)
浄土に生まれて覚りを開きて後、急ぎこの世界に還り来りて神通方便をもって結縁の人をも無縁の人をも、誉むるをも謗をも、皆悉く浄土へ迎えんと誓い起こしてのみこそ、当時の心をも慰むることに候う。
『往生浄土用心』(『法然聖人全集』所修)
生きとし生ける物は過去の父母にて候うなれば、食うべきことにては候らわず。
D『歎異抄』」第七条
念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
『西方指南抄』(法語十三問答)
弥陀の一事には、もとより魔事なし、……仏を誑かす魔縁なければ、念仏の者をば障またぐべからず、……念仏の行者の前には、弥陀観音常に来り給う。
E『歎異抄』第九条
念仏申し候らえども踊躍歓喜の心疎かに候うこと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候らわぬは、如何にと候うべきことにて候うやらん。
『西方指南抄』(小消息)
受け難き人身を受け、遇い難き本願に値い、起こし難き道心を起こして、離れ難き輪廻の里を離れ、生まれ難き浄土に往生せんことは、喜びの中の喜びなり。
F『歎異抄』第十条
念仏には無義をもって義とす。
『西方指南抄』(法語十八条)
念仏は様なきをもてなり。名号を称うるほか、一切様なきことなりと云えり。
恩師法然亡き後、その念仏往生義に対す異端は、まさに獅子身中の虫の如く、内部から湧き起った。このような社会的状況を背景にして、親鸞の数多の著作は制作されたのである。換言すれば「歎異」の所産といって過言ではあるまい。
そして『歎異抄』が唯円による親鸞の語録であることは周知のことであるが、序文及び跋文によれば、親鸞滅後、自見の覚悟をもって他力の宗旨を乱し、先師の口伝の真信に異なる人々が相継いだ。これらの異端異説を見聞して黙視することができず、老躯に鞭打って耳底に残る亡き親鸞の持言を書き綴り、異端批判の証権としたのが『歎異抄』である。前半は言うに及ばず、後半の唯円の異端批判の文章の中にも、至る所親鸞の言葉を引用して、異端批判に対する強力な証権としている。私は、この唯円が採った異端批判と、その証権を先師に求める態度の原型を、そっくり親鸞の晩年の著述生活の上に見るのである。
@『御消息第六通』
「また他力と申すことは弥陀如来の御誓いの中に選択したまえる第十八の念仏往生の信楽するを他力と申すなり。如来の御誓いなれば、他力には義なきを義とすと、聖人の仰せごとありき。」
A『御消息第六通』
「この信心を得ることは、釈迦、弥陀、十方諸仏の御方便より賜りたると知るべし。然れば、諸仏の御教えを謗ることなし、余の善根を行ずる人を謗ることなし。この念仏する人を憎み謗る人をも、憎み謗ることあるべからず。憐れみをなし悲しむ心を持つべしとこそ、聖人は仰せごとありしか。」
B『御消息第十六通』
「故法燃聖人は浄土宗の人は愚者になりて往生すと候らいしことを、確かに承り候らいし上に、物も覚えぬ浅ましき人々の参りたるをご覧じては、往生必定すべしとて、笑ませたまいしを見参らせ候らいき。文沙汰して、さか賢しき人の参りたるをば、往生は如何あらんずらんと、確かに承りき。」
C『御消息第十九通』
「まことの信心ある人は等正覚の弥勒と等しければ、如来と等とも諸仏の誉めさせたまいたりとこそ聞こえて候ろう。また弥陀の本願を信じ候らいぬる上は、義なきを義とすとこそ、大師聖人の仰せにて候らえ。」
D『御消息第二十通』
「また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは行者の各々の計らうことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議に在しますゆえに、仏と仏との御計らいなり。凡夫の計らいに非らず。補処の弥勒菩薩を初めとして、仏智の不思議を計らうべき人は候らわず。然れば、如来の誓願には義なきを義とすとは大師聖人の仰せに候らいき。」
E『御消息第二十五通』
「大方の訴えのようは、御身一人のことには非らず候う。全て浄土の念仏者のことなり。この様は、故聖人の御時、この身どもの様々に申され候らいしことなり。これも新しき訴えにても候わず。」
F『御消息第三十五通』
「十七の願に、我が名を称えられんと誓い給いて、十八の願に、信心まことならば、もし生まれずは仏にならじと誓いたまえり。十七、十八の悲願、みな実ならば、正定聚の願は詮なく候うべきか。補処の弥勒に同じ位に信心の人はならせたまう故に、摂取不捨とは定められて候らえ。この故に、他力と申すは行者の計らいの塵ばかりも入らぬなり。かるが故に、義なきを義とすと申すなり。この外にまた申すべきことなし。ただ仏にまかせまいらせたまえと大師聖人のみことにて候らえ。」
(松野純孝先生のお話)
親鸞に対する異端はこの『歎異抄』の段階ではじめて発生したものではない。すでに親鸞が関東にいたころに異端が起こっていたことは、親鸞が手紙で語っている通りである。例えば1252(建長四)年2月24日付の手紙などがそれである。
『歎異抄』には法然の『七箇条起請文』が第十二条に、また『唯信抄』が第十三条に引用されているなど、作者はこれら『七箇条起請文』『唯信抄』に見る専修念仏の異端は知っていたはずである。今、その異端を示すと次の通りである。
先ず1204(元久元)年11月7日に、法然以下二百余人連署の上で出された『七箇条起請文』では、次の七項を禁止している。
@真言天台を破し、阿弥陀仏以外の余仏菩薩を謗ること。
A有智の人とか念仏以外の別の道を修業する別行の輩に対して、好んで論争をいたすこと。
B見解を別にし、行法を異にする別解別行の人に対して嫌喧を挑むこと。
C念仏門に於ては戒行なしと言って、婬奨め食肉を奨め、いわゆる造悪無碍を鼓吹すること。律儀を守者を雑修と罵ること。
D聖教を離れ、師説にあらざる私の義を述べて、みだりに諍論を企てて愚人を迷乱すること。
E唱導を好んで種々の邪法を説き、無知の道俗を教化すること。
F仏教にあらざる邪法を正法として説き、師匠の説と偽って号すること。
1204年といえば法然が専修念仏を唱導してから約30年になる。このうち@からCまでの四項目は対外的なものであり、DからFまでの三項目は対内的なものといえよう。つまり、専修念仏以外の諸宗を謗り、理論攻撃を挑むことと、専修念仏の正統を外れて勝手な自説を唱えること、この二つに大別できよう。
次に、1221(承久三)年8月14日にできた聖覚の『唯信抄』には次の四つの異端を挙げている。
@臨終の念仏が尋常の念仏より遥かに功徳が深いとされているから、いかに尋常の念仏を称えても効果が少なくはないかということ。
A先世の罪業の力は悪趣の生を引くものであるから。先世の罪業を負っている者は、どんなにこの世で念仏しても、浄土には生まれがたいということ。
B五逆の罪人が十念によって往生できるというのも宿善による。そうすると宿善の乏しい我々はどうして往生できようかということ。
C経に既に乃至十念とあるので、信心の一念でこと足りる。それゆえ、一念に信心決定さえすれば、一念以後の称名念仏は不要であり、むしろそうした一念以後の称名は仏の願を信じない不信であるということ。
1221年は『七箇条起請文』以後17年、法然没後9年、親鸞在関東時代の49歳に当たる。
先の『七箇条起請文』が対外と対内に渡っていたのに対して、この『唯信抄』では、対内的なものだけになっている。そして、この四つの異端も、親鸞の手紙の中に見出されると言っていい。
それでは親鸞の手紙に見る異端と『歎異抄』に出てくる異端においてはどうなのであろうか。『歎異抄』第十一条から第十八条に挙げられている異端は次の通りである。
@誓願不思議か名号不思議かの議論で人の心を惑わすこと。
A経釈を読み学問しない者は、往生不定ということ。
B本願誇りは往生できぬということ。
C一念に八十億劫の重罪が滅すということ。
D煩悩具足の身ですでに覚りを開くということ。
E回心ということが幾度でもあるということ。
F辺地往生の人は、遂には地獄に堕ちるということ。
G施入物の多少に従って、大小仏になるということ。
『歎異抄』も『唯信抄』のように対内的なものばかりである。この内、@は『御消息第23通』、Aは『御消息第16通』に見出される。しかして、BからGまでは直接出てこないが、これら異端の出る下地は親鸞の手紙の内に充分に読み取ることができる。即ち、親鸞の手紙に出てくる異端は次のようなものである。
@専修念仏以外の諸仏諸神を謗り争論を挑むこと。
A師説と偽って勝手な自説を唱えること。
B造悪無碍。
C一念か多念か。
D有念か無念か。
E臨終来迎。
F念仏往生は辺地往生。
G学生沙汰。
H如来等同は自力。
I信と行とは別。
J誓願と名号は別。
K南無阿弥陀仏と称えての上に無碍光仏と申すことは不可。
L他力中の他力。
M臨終の時、肉体上の病で悪相を為す者は不往生。
等である。この内EHKLMは法然門下では恐らく親鸞の系統においてしか現れなかった異端としてよいであろう。
こうして『七箇条起請文』『唯信抄』、『親鸞御消息』『歎異抄』を並べてみると、親鸞の手紙の段階においては、それ以前の『七箇条起請文』『唯信抄』の異端は全て明らかにされている。それに対して、親鸞の手紙の段階においては、まだはっきりした形は出ていないが、しかし、やがて出てくる可能性のあった異端が『歎異抄』において取り上げられてることが知られる。
そして歎異抄において特に注意すべき異端は、
@第十三条、本願誇りは往生できぬという異端。
A第十五条、煩悩具足の身ですでに覚りを開くという異端。
B第十七条、辺地往生の人は遂には地獄へ堕ちるという異端。
この三つである。この三つの異端は、恐らく法然門下では親鸞の系統だけにしか見られないものと思われるからである。もっとも、一念義系にはこうした異端の発生する可能性はあるが、現存史料で、そうした一念義の異端について、まだ私は目にふれていない。
『唯信抄』においてわかるように、『唯信抄』は前掲四項目の異端を踏まえて専修念仏の本質を一層明らかにしている。即ち、
@平生の念仏の重視。
A念仏が五戒十善よりも勝れている極善のものであること。
B尽形(命終わるまで)の称名念仏は宿善によるということ。
C一念信心往生の基本的態度の確認。
である。このように専修念仏に対し不審とするところ、疑問とするところ、異端を媒介として専修念仏の本義を一層深く掘り下げているのである。ここでは、異端は単に真っ向から払いのけられ、切り捨てられているのではない。専修念仏を一層鮮明なものにするために吸い上げられているのである。
法然から親鸞への専修念仏思想の展開の中間項として、聖覚の『唯信抄』を挿入してみると、その展開の道筋がよく理解できる。例えば、親鸞の基本的立場としての「一念信心往生」や「一念信心の時、すでに如来に等しい位に定まる」といった思想は、まさに『唯信抄』の前記の異端を踏まえてみるとよく了解できるのである。つまり、一念信心往生、如来等同の思想は、臨終来迎の念仏を退けて平生の念仏を強調し、一念の信心決定に力点を置いたものであるが、それは前掲『唯信抄』所収の異端@Cを踏まえているのである。また親鸞の「念仏は無碍の一同」「悪人正機」といった思想も、『唯信抄』の異端のABを踏まえているともいえる。こうして専修念仏に対する不審、疑問、異端を吸い上げることによって、専修念仏はなお一層その本質を明らかにしていった。
そのことは、親鸞の手紙の中に見ることができる。例えば『御消息第41通』に、親鸞に教忍という弟子が「一念にて往生の業因は足れり」ということについて種々の疑問を提出した。それについて親鸞は、教忍のそうした不審、疑問を、「まことに善き御疑いどもにて候うべし」と言っている。親鸞は念仏に対する不審、疑問を「善き御疑い」として歓迎しているのである。
また前述の如来等同思想は、特に晩年に力をこめて説かれたものであるが、この思想も一つには晩年における関東の異端に対して鼓吹されたものであった。つまり、異端をみごとに吸い上げて、かえって如来等同=信人は如来と等しいという、専修念仏の肝心要である信の無上性を讃えるに至っているのである。異端を逆に信の本質開顕へのエネルギーに転成しているのである。
ところで、親鸞の手紙の段階において未だ十分に顕に台頭しなかったが、しかし、やがて出てくる可能性のあった異端に対処したのが『歎異抄』であった。そして、そうした親鸞のなお取り残していた異端に応え、専修念仏の本義を一層明らかにしようとしたのが『歎異抄』であったわけである。ここに『歎異抄』の専修念仏思想発展における史的位置と意義がある。
(梯 實円円和上のお話)
既に親鸞聖人の御在世の頃から、関東の門弟達の中に様々な異義がはびこり、聖人もお心を痛めておられたことがお手紙などを通して伺えます。その多くは法然聖人の時代にまで遡る一念義と多念義の争いや、一念義系の造悪無碍と呼ばれる邪見などが主なものでしたが、『歎異抄』にもそれらが色々と様を変えて現れてまいります。
殊に1256年、聖人84歳の時には、聖人の息男慈信房善鸞が聖人に背いて異端の教説を唱え、門徒を混乱に陥れたかどによって、聖人から義絶の処分を受け親子の縁を切られるという事件が起こりました。
聖人が御入滅になり、さらに10年、20年と経つにつれて、聖人から教えを受けた直弟子達も次々と亡くなってゆきました。しっかりとした指導者を失った各地の門徒集団の中には自己流の勝手な解釈によって教えを歪めたり、天台宗や真言宗などの教えを取り入れて自力化していったり、一念多念の争いに巻き込まれて、本願他力の宗義を見失ってしまう者が沢山出てまいりました。
「私はこのように故聖人からお聞かせに預かった」
と語り続けてきた唯円房も、やがて自身の余命が幾ばくもないことを思うにつけても、聖人から承った珠玉のようなお言葉を、後の世の人の指標として書き残さずにはおれなかったのでしょう。この書の最後に次の様に述懐されています。
「故親鸞聖人が仰せになられたことの、せめて百分の一でも、ほんの僅かでも思い出して書き記しました。幸に念仏申す身にしていただいておりながら、真っ直ぐに真実の浄土へ生まれないで、自力の計らいによって、極楽のかたほとりのような方便化土に留まるということは本当に悲しいことです。同じ教えに連なる念仏の仲間で信心が異なるというようなことがないようにと念じて、涙ながらに筆を執りこの書を記しました。歎異抄と名づけましょう。」
こう、切々と訴えられているのは、異端を弾劾するといった冷ややかな批判ではありません。せっかく縁あって浄土のみ教えを聞き、お念仏申す身にまでなりながら、このような身に育て導いてくださった如来大悲の恩を忘れ、真実の如来を覆い隠し、自他共に安住の地を見失っていく者への深い悲しみが、この書を撰述せしめたのです。誤れる者を悲しむ心こそ、如来の大悲に通ずる心であるとすれば、この書の撰述はまさに「大悲を行ずる」姿であったというべきでしょう。ともあれ、唯円が「破邪」と言わずに『歎異の抄』と題されていることの深い意味を汲み取らねばなりません。
(仲野良俊先生のお話)
『歎異抄』を書くにあたって「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留まる所」を「聊かこれを記す」と仰っています。ですから唯円様としては思い出すままにお書きになってもいいわけです。何から先に書いてもいい。けれども、やはりそうなさらずに、ちゃんと親鸞聖人のお心に従って、その順序を考えて綴っておいでになります。さすがに直弟子の唯円様だけあって、大したものだと私は思うのであります。
言うまでもなく親鸞聖人の主著でありますところの『教行信証』は『教巻』『行巻』『信巻』『証巻』それから『真仏土巻』『化身土巻』と、全部で六巻あるのですが、『歎異抄』もやはりこの教行信証という順序に従って各章を述べてあるわけであります。これが非常に大事です。だから第一章は教に当たる所だと考えたらいいわけです。浄土真宗とはこのような教えであるということが、この第一章に示されているわけであります。短い文章でありますけれども、浄土真宗の全体がここへちゃんと結集している、こう考えてもいいほどです。
第二章は『行巻』のお心が表されております。行というのは念仏のことです。浄土真宗の内容には念仏という大事なものがございます。念仏往生とか念仏成就という言葉がありまして、念仏を外すならば浄土真宗ではなくなります。『教行信証』では親鸞聖人は『行巻』で、この念仏のことを示しておいでになるのです。そこで唯円様は続いて第二章の所で、念仏とはこういうものだということをはっきりと示してくださっているわけでございます。これも我々にとっては非常に大事な内容を持っております。
念仏をいただいたここを信心といいます。行信証というのは、浄土真宗の教えの大事な内容、骨組みですね。まあいわば三本柱、それが行信証という順序で示してある。特に親鸞聖人は信ということを非常に大事にされておられました。信は念仏をいただいた心です。お念仏も大事だけれど、念仏をいただいた心の方がさらに大事であるというのが親鸞聖人の立場であると思います。だから蓮如聖人は『御文章』の中で「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候う」と、信心為本ということを言っておられます。信心がもとだ、助かる念仏がいくらあっても、それをいただいて助かった者がなければ念仏が念仏になりません。念仏にうなずく、念仏をいただくということが、念仏を本当の念仏にするわけです。助かる念仏の成就は、助かった人によって完成する。そういう意味で信心が大事であると言われるのです。これは、特に私たちにとっての大問題であります。そのことが『歎異抄』の第三章に示されております。
第四章意から第十章までは、だいたい『証巻』に当たると読んでいただければよいと思います。証は即ち覚りです。お念仏をいただいた信心、その信心を持った時に、いったいどういう状態になってくるのか。どういう姿になるのかということが、ここにはっきり示されておりますので、これまた非常に大事な意味を持ってくるわけです。
こういうふうに唯円様は「大切の証文」を、ただ自分の思いつくままに羅列するのではなく、まさしく親鸞聖人の教行信証の順序で出しておられる。これは、私は非常に貴重な意義があることだと思うのです。どこまでも親鸞聖人のお心に忠実であったということでありましょう。唯円様のこの非常に真面目な態度こそ、もって末代の我々の模範にしなければならない所ではなかろうかと、そういうふうに私は感じているわけでございます。
(仲野良俊先生のお話)
私はいつも思うのですけれども、求道ということは、もう、こういう師匠が見つかったら求道の事業は半分完成したといってもいいくらいですね。それ程大事なものです。ところが、なかなか善知識が見つからない。これは看板をあげていないものですからなかなか見つからないのです。ちょっと看板でもあげていてくれれば交番で聞けばいい。「ちょっとお尋ねしますが、この辺で善知識さんの所はどこですか」と言ったら巡査が「ああ、あの角のタバコ屋の横手を曲がった三軒目です」と教えてくれるのですが、善知識は看板をあげていない。また、看板をあげていたら眉唾物です。それでなかなか見つかりにくい。
善知識を探すためにはどうすればいいか。
蓮如聖人は、その条件に五つを出しておられます。『御文章』2帖目の11通に「五重義」ということがありまして、五つある中の後の方、光明、信心、名号の三つは今の話に関係ありませんから別にして、善知識の前提として、ここには「一つには宿善」とあります。これは先行条件です。宿善がなかったら善知識は遇えない。宿善という言葉は皆さんも聞いておられると思います。蓮如聖人は、「宿善開発」という言葉をしばしば使っておられる。
宿善というのは、字からいうと、何かいいことをしたというふうに見えます。私は京都の人間ですが、京都はご存知のように寺が非常に沢山ある所です。例えば、お彼岸の中日なんか寺々に沢山の参詣人が集まる。夕刊に「今日は中日で天候に恵まれ、洛中洛外の寺々は善男善女で賑わった」と書いてある。善男善女、『阿弥陀経』や『観経』には「善男子善女人」という言葉があります。考えてみると、お寺に参る人が果たして皆いい人ばかりかというと、そうでもなさそうです。根性の悪いおばあさんもいるし、頑固で何ともかんともしようがないおじいさんもいる。それでも善男善女という。どうしてでしょうね。心がけの悪いのも、欲の深いのも、善男善女です。それは何故かというと、仏に近づくということが善だというわけです。その人間がどうあろうとも、仏に近づくのが善。そういうことになると、宿善というのはかつて仏に近づいたということ、つまり道を求めたということ。この場合の善は求道です。求道の積み重ね、それしかない。
私たちが善知識に遇うには、一生懸命道を求めれば必ず遇えるのです。真剣に道を求めることが大事です。真剣に求めない場合、話を聞くだけだと話し上手なのに引っかかる。声の大きい、話のうまいやつに引っかかる。だから私のようなのによく引っかかるのです。いい加減に聞いていると、私みたいなものに騙される。そんなことがありますよ。気をつけなさいよ。後で文句を言われてもかなわないから、初めから言っておきますがね。
真剣に道を求めていると大事なことはピーッと入ってくるのです。そういうものです。真剣に道を求めたら必ず真実の言葉が響いて入ってくる。求める心がなかったら善知識は見つからない。真剣に道を求めるとなると真実を求めますからね。そうすると必ずそこには響くものが出てくるのです。「この人の話は本当だ」ということになる。そういうわけで蓮如聖人は「一つには宿善」と言っておられるのです。