歎異抄の諸問題

歎異抄研究とその普及(仲野良俊先生のお話)

これはお話したかどうかわかりませんけれども、大体私たちのように、生まれた時から浄土真宗の流れを汲んでいる者は別にして、全然そういうことのない、ごく普通の一般の人々が親鸞聖人という方に接するのは、たいてい『歎異抄』が手懸りになっているようです。親鸞聖人という人が非常に深い宗教心を持った人だということに皆が感激するのに『歎異抄』が大きな機縁になっていることが多いと思います。かえって、私たちのような者が『歎異抄』には疎遠なのです。
何故かといいますと、浄土真宗では昔から蓮如聖人の『御文章』を布教の素材にして、ずっと今日まで来たからです。そういう点で、かえって私たちの方が『歎異抄』には疎遠で、真宗に関係のない一般大衆の方々が『歎異抄』をよく読んでおられるということもあるわけです。

この間ちょっと用事があって東本願寺の同朋会館へ行きました。玄関に黒い札がぶら下げてあって、その上に白い字で、「○○奉仕団」「○○教区○○奉仕団」などと、その時に来ておられる奉仕団の名前が出ています。ずっと並べてある札の中に、「金光教奉仕団」という札があったので私はびっくりしました。会館の事務所へ行って、若い人に、「あの金光教奉仕団って、本当に来ているのかね」と聞いたら、「ええ、毎年来ておられます」と言う。

これは何故かというと、やはり『歎異抄』がご縁になっているのです。金光教はいわゆる宗派神道です。その本部には金光教学院というのがあって、金光教の教学を完成させるために熱心に努力をしておられる。そこの人たちが、親鸞聖人の『歎異抄』は非常に深い宗教書だ、これでもって自分たちの宗教心をぜひ磨いて行こうと、曽我量深先生の『歎異抄聴記』をテキストとして研究会を開くようになった。そしてそれがご縁で親鸞聖人の教えを聞きたいということで、毎年来ておられるというふうに聞きました。本当に『歎異抄』というのは宗派の如何を問わず、心を打つものなのです。

また明治の初年に、この『歎異抄』を見て非常に感激した人に、キリスト教の偉い方で内村鑑三という人がおられます。この人がこれを読んで、その時代には仏教しかなかったからやむを得ぬことですが、親鸞の阿弥陀に対する深い帰依の心は、我々キリスト教徒の主イエスに対する信順の心以上のものがあると言って絶賛しておられます。

倉田百三は、この『歎異抄』に出遇って、『出家とその弟子』という戯曲を書きました。親鸞聖人に接する人は、ほとんどこの『歎異抄』を通して接していくわけです。それ程に『歎異抄』は、人々に大きな影響力を持っているわけです。おおよそ人生というものを少しでも深く考えようとし、また宗教に多少でも関心を持つ人は、宗旨の如何を問わず、必ず一度はこの『歎異抄』を読んでいます。

@江戸時代

(大谷派)  
香月院深励『歎異抄講林記』
       妙音院了祥『歎異抄聞記』

A近代(
明治〜昭和

(大谷派)   
清沢満之
        暁烏 敏『歎異鈔講話』
        金子大栄『歎異鈔聞思録』
        曽我量深『歎異抄聴記』

(本願寺派)  近角常観『歎異鈔講義』
        島地大等『歎異鈔講讃』

        梅原真隆『歎異鈔講話』

B一般
(哲学者)
   三木 清・西田幾多郎・西谷啓治・和辻哲郎
(歴史学者)  家永三郎・笠原一男・古田武彦
(作家・評論家)
倉田百三『出家とその弟子』
        亀井勝一郎・谷川徹三・唐木順三



奥書をめぐる諸問題(仲野良俊先生のお話)

唯円房の書かれた直筆の『歎異抄』は、今は残念ながら残っておりません。この『歎異抄』に非常に感激し、それをわざわざ自分の筆で写し取って、いつも側に置いて読んでおられた方が八代目の蓮如聖人です。蓮如聖人は、こよなくこの『歎異抄』を大事にされ、これを常に座右に置いて、そして本願寺の再興のためにご苦労されたのです。本願寺を再興する真宗の精神は『歎異抄』だと頂いておられたのです。
この蓮如聖人の筆によってできましたところの写本が西本願寺にありまして、これが最も古い『歎異抄』だということになっております。で、その写しには次のような蓮如聖人の奥書がある。

『右この聖教は当流大事の聖教となすなり。無宿善の機において左右なくこれを許すべからざるものなり。』

「右この聖教」というのは『歎異抄』です。「当流」は浄土真宗のこと。「当流大事の聖教となすなり」浄土真宗にとって大変大事なお聖教だということです。「無宿善の機において、左右なく」左右なくというのは無造作にという意味。考えもせずとか、また調べもせずにとかいうことです。「左右なくこれを許すべからざるものなり」無宿善の者に、何でもかんでも、さあさあと見せてはならん。

こういうことを蓮如聖人が書いておられます。それで『歎異抄』は長い間一般の人には見せてもらえなかった。明治20年代になって初めてこれが公開されました。

蓮如聖人は、この『歎異抄』を非常に大事なお聖教だと尊んでおいでになる。それでこの奥書を書かれたわけです。その聖人のお心を取り違えて『歎異抄』は人に見せるべきものではないという受け取り方をしていた。そのために『歎異抄』が一般の人々の目に触れることができなかったということは実に残念なことだという気がしてなりません。蓮如聖人のお心としては、見せるなというのではない、「むやみやたらに見せるな」ということなのです。無宿善の者に見せると、これを逆に利用するかもしれない。無宿善の人間という者は、必ずお聖教の意味を取り違える。それを自分の言い訳のために使って、とんでもないことになってしまう。だから、そういう無宿善の者には、あまり無造作に見せてはならない。こう言われたのであって、決して誰にも見せるなということではない。にもかかわらず、これを秘密の聖教としてしまった。こういう点が非常に残念なことですけれども、この奥書があったからそうなったのです。
けれども、もしこの奥書がなかったらどうなっていただろうか。なかったら善かっただろうと言うけれども、さあ、もしなかったらどうなっているだろうか。
『歎異抄』はいわゆる無名の書です。著者の署名がない。それで誰が書いたかということが問題になってきたのでしょう。名前が判らないのです。誰が書いた物やら判らないということでしょう。もし、蓮如聖人がこれを見つけられなかったら、『歎異抄』は永遠に埋もれてしまっていたかもしれない。人間というものは有名な人が書いた本は大事にするけれども、名前のないような人の本というものは、いい加減なものだぐらいにしか思わないものです。だとすれば、蓮如聖人が見つけてくださって、「右この聖教は当流大事の聖教となすなり」と、こう言われたからこそ『歎異抄』に権威ができたわけです。これは立派な物だということになったのでしょう。

もし蓮如聖人がこう言われなかったら、どこかの隅にほったらかしになってしまったかもしれない。恐らく埋もれてしまって、私たちの目には止まらなかったかもしれないということを思うと、やはりこの奥書はあった方がよかったのです。



現存する七本の歎異抄

@蓮如本(西本願寺蔵)現存最古の写本
A端の坊本(大谷大学蔵)永正本ともいう

B光徳寺本

C豪摂寺本

D妙琳寺本

E龍谷大学本(龍谷大学蔵)

F端の坊別本(龍谷大学蔵)




歎異抄の作者をめぐる諸問題
(梯 實円和上のお話)


@河和田の唯円房説
・・・・・妙音院了祥(1788〜1842)
A覚如説
・・・・・・・・・・性応寺の侍従による説
B如信説
・・・・・・・・・・香月院深励(17491817
C鳥喰の唯円房説
・・・・・・福井大学・重松教授の説
江戸時代の学者の中には、親鸞聖人の孫にあたる如信聖人がそれであろうと推定したり、如信聖人から真宗を学ばれた本願寺第三代の宗主覚如聖人を著者に見立てたりする人もありました。

それというのも、覚如聖人の『改邪鈔』や聖人が如信聖人から直伝された法語を集めたといわれる『口伝鈔』に、しばしば『歎異抄』と同じ内容の法語が出てくるからです。しかし、その文体から見て、覚如聖人のもでないことは確かですし、如信聖人を裏づけるような積極的な資料もありません。それに対して了祥が親鸞聖人の直弟で常陸の河和田に住んでいた唯円房がこの書の著者であると論証してからは、河和田の唯円房説が定説のようになっております。



(神子上恵龍和上のお話)
覚如聖人編纂説は、性応寺の侍従という人が『聖教目録』の上に『歎異抄』は覚如聖人が編纂されたものだという説を立てています。大体本願寺派の『真宗法要』は、この覚如聖人の撰述として、『歎異抄』を覚如聖人の撰述の部に入れているわけなのです。

ところが、この説に対し、大派の香月院深励師の『歎異抄講林記』に、如信聖人が編纂されたものだという説を立てて、覚如聖人説に対して三文一理を以って、覚如聖人ではない。如信聖人が編纂されたものだと主張しているのです。

三文とは、

 「善人なおもて往生をとぐ」

 「本願を信ぜんに他の善も要にあらず」

 「たとえば人を千人殺してんや」
の御文が『口伝鈔』の中に何れも如信聖人の言葉として出ているのです。そういう所から如信聖人が編纂されたものであるという説を立てている。
一理というのは、覚如聖人は文永7年のお生まれであります。親鸞聖人が亡くなってより9年に生まれたということになるのでありますから、覚如聖人は親鸞聖人と面授ではない。ところが、『歎異抄』は親鸞聖人から直々に自分が聞いた所を「耳の底にとどむる所、聊か之を註す」と書いてありますので、親鸞聖人から9年も後に生まれた覚如聖人が書いたはずはないという。

ところが、香月院深励師の門弟に了祥という方が『歎異抄聞記』を書いて、その中に、『歎異抄』は河和田の唯円が書いたものだという説を立てている。それは『歎異抄』を読んでみるというと、唯円房が親鸞聖人から直に聞いて、その聞いたところを直に書いたという体裁になっているという。だから、どこから見ても唯円房が書いたのに間違いないということを了祥師が言いました。

この説が明治時代になりまして、了祥師の唯円房説がどの学者にも採用されまして、ほとんど学会の定説となっている状態であったわけです。

ところが、ごく最近に福井大学におられた重松教授が『中世真宗思想の研究』という書物を書いて、その中に鳥喰の唯円がこの『歎異抄』を編纂したんだという新しい説を出された。

なるほど、唯円房という方は親鸞聖人の門弟の中に沢山唯円という名前の人が出ている。何も河和田の唯円と決めてしまうのはあまりにも早計ではないかというところから色々研究してきた結果、鳥喰の唯円が『歎異抄』を編纂したのだという新しい学説を発表しているわけです。

ところが、これはやっぱり読んでみまして、あくまでも重松教授の個人の考え方であって、我々が読み直してみて、確かに鳥喰の唯円だと、人を納得せしめるだけの力を持っていない。これは公平に見て、私は従来の河和田の唯円房説の方が、むしろ文献的に正しいのではないか、有力ではないかという考えを持っています。



唯円房の人物像をめぐる諸問題
(神子上恵龍和上のお話)

二十四輩の第24番目に鳥喰の唯円房の名前が出てきている。鳥喰の唯円房はどういう人であるかと申しますと、これは信願房という人の弟子です。信願房の弟子は幾人かありますが、その中に、一番初めに唯円房の名前が出ている。ところが信願房という人は造悪無碍を主張した人であります。どんな罪を犯しても阿弥陀如来によって救われるという造悪無碍を主張したのが信願房であり、その弟子が唯円である。

それから更にもう一つの問題は、信願房の弟子に唯円、蓮性、蓮信、円仏等々いるんです。けれども、その唯円が鳥喰の唯円であるかどうか、そういうことが全然書いてないのです。

それから、二十四輩の第24番目に唯円房の名が出て、それが鳥喰の唯円となっております。けれどもそれは、実は一本には唯円房が唯善房になっている。だから、果たして、これが唯円房であるかどうかということも疑問である。

それから『歎異抄』自体が造悪無碍を主張した信願房の門弟が書いたものであるということが、何か『歎異抄』という本が異義を主張したもののようになっていますが、これも我々が『歎異抄』を研究してくれば、『歎異抄』の中に「薬あればとて毒を好むべからず」と、造悪無碍を誡めた有名な御文が出ています。だから『歎異抄』という書物がそういうような造悪無碍系統の書物じゃないということも、内容的に合いません。

河和田の唯円という人にも昔から色々な説があるのです。

一つは、平太郎の弟の平次郎という人が仏門に入って唯円房になったのだと、こういう説です。ご承知のように、平次郎という男は非常に邪見な男であって、女房が密かにお名号を礼拝しているのを見て、密通をしているに違いないと思って女房を切った。ところが、あにはからんや、切ったはずの女房が無事におったので、非常に不思議に思うて一部始終を話して、女房がそのお名号を取り出してみるというと、お名号が真っ二つに切られていたという。それから改心いたしまして仏門に入った、そしてその人が唯円房であるという有名な伝説があります。

これは歴史的にみて非常に怪しい。仮にそうとしましても、昔若い時に女房を邪推して切るような人が、このような一点の落ち度もない、引き締まった文章が書けるかということは、よほど教養の高い人でなくては書けないと私は思うんです。若い時、そんなことをした人間が、お念仏に帰依した途端に、直ぐに教養ができるはずがないですから、唯円という人はよほど孝養が高かった人だと私は思うのです。

それに合わせて有力な考え方は、唯円房という人は大谷家と密接な関係があった人であるという考え方であります。その密接な関係があるというのは、小野宮禅念という人は親鸞聖人の娘さんである覚信尼と結婚した人です。ところが小野宮禅念の子どもが、この唯円房であるという伝説もあります。だから、唯善とは腹違いの兄弟であると。そこで唯善がはるばる関東に下って唯円房に師事したと。同時に、覚如聖人もこの唯円房に師事した。大谷家の二人の人間が師事したということは、何か大谷家と非常に深い関係にある人でないと、大谷家の人がわざわざ弟子入りするはずがない。ということで、結局唯円という人は、一説によると小野宮禅念の子どもであった、だから唯善とは兄弟であったという一説があります。この説は傾聴に値するものがあります。

『慕帰絵詞』を見ても、弁才に勝れ高徳の人であった、博識の人間であったというふうに書いてありますから、大谷家と特別の深い関係にあった人ではないかと思います。だから、若い時から相当教養のあった人であったと思います。これは文章を見ましても、どこから見ましても、これだけの教養のある人は少ない。現代においても、なかなかこのような文章は書けませんから、700年の昔にこれだけの文章を書いたということは、よほど偉い人だったと思います。
しかも、親鸞聖人の晩年のお弟子さんでありまして、覚如聖人が正応元(1288)年に唯円房が上洛した時に逢うたのは、親鸞聖人滅後26年です。だから、親鸞聖人がお隠れになって30年近くも生きておった人ですから、ここに書いてあるように、親鸞聖人が亡くなられた後、色々な異義異安心が起こったと書いてありますから、当然唯円房が聖人亡き後、30年近く生き長らえて、その時起こった異義異安心を批判したのが『歎異抄』であります。そうすれば、やはり河和田の唯円という人が大谷家と特別の深い関係にあったというふうに考えることが、一番穏当な考えじゃないかと思います。



(梯 實円和上のお話)
河和田の唯円房(1222〜1289年頃)についてもあまり正確な伝記はありませんが、親鸞聖人の門弟に名を連ねた『親鸞門侶交名牒』の一本には常陸奥郡住とあり、また一本では常州河和田となっています。

唯円房の出生について、一説では親鸞聖人の弟子であった常陸の大部の平太郎入道の弟の平次郎であったといい、また一説には、京都の小野宮禅念の先妻の子であったともいいますが、詳しいことはわかりません。

唯円房の遺跡である
水戸市河田町の報仏寺の本尊の台座の墨書銘に、彼の忌日を正応元年八月八日と記しています。それによれば、その往生は正応元年、1288年ということになり、聖人滅後26年目ということになります。

ところが、覚如聖人の次男従覚聖人が著された『慕帰絵』という覚如聖人伝の中には、覚如聖人が19才の正応元年の冬、おそらく12月28日でしょうが、唯円房が上洛してきたので、真宗の法義について日頃の疑問を問い質したといわれています。これによれば、正応元年冬には、彼はまだ健在だったことになります。

ところが、『本願寺通記』などに伝えられている大和の下市の龍興寺の伝承によれば、唯円房は正応元年2月6日、68歳を一期として下市で往生を遂げたといわれています。龍興寺の裏山には唯円房の墓も現存しています。

今両者の是非を決めることはできませんが、いずれにせよ、『歎異抄』はこれより少し前に著され、正応元年の上洛の時に覚如聖人に献呈されたのではないでしょうか。

なお、覚如聖人にとっては叔父にあたる唯善大徳は、後に大谷破却事件を起こす人ですが、若年の頃、唯円房の許にあって真宗を学んだといわれています。