地獄草紙(鶏地獄)

奈良国立博物館蔵
紙本着色、縦26.6cm
全長435cm
鎌倉時代(12世紀末)


奈良国立博物館の『地獄草紙』は明治年間、東京東大久保の大聖院にあり、後に横浜・原家の所蔵となり、戦後国有となったものである。

詞5段、絵は7段あり、巻末の2段の詞が失われていたが、第6段目の詞書は瀬津伊之助氏所有の手鑑中から発見、昭和26年、国が買い取って同絵巻中に挿入した。残る第7段目の詞書も高野山金剛三昧院の手鑑中に貼付されていることが最近の調査で判明している。

その内容は、『起世経(きせいぎょう)』に説く八大地獄のうちの16別所によって図絵している。


     第1段は糞尿地獄で、糞尿泥中に苦しむ罪人に蛆虫(うじむし)がいどみかかるところ。

     第2段は函量(かんりょう)地獄で、罪人に鉄函をもって火を量(はか)らせるところ。

     第3段は鉄鎧(てつがい)地獄で、獄卒(ごくそつ)が罪人を磨り臼に入れてすり砕くところ。

     第4段は鶏地獄で、熱火の鶏が罪人を蹴りズタズタにするところ。

     第5段は黒雲沙(こくうんしゃ)地獄で、逃げ惑う罪人に熱い砂が降りかかるところ。

     第6段は膿血地獄で、膿汁の中に没した罪人に最猛勝(さいもうしょう)という虫が喰いつくところ。

     第7段は地獄名は不明であるが、罪人の女を火炎を吹く怪獣が追いかけるところ。


地獄草紙(雲火霧処地獄)
東京国立博物館蔵
紙本着色、縦26cm、全長242cm
鎌倉時代(12世紀末)


東京国立博物館本は、もと岡山の安住院に伝わったもので、詞絵各4段あり、いずれも『正法念処経(しょうほうねんじょきょう)』の所説によったことが知られる。『正法念処経』は地獄を8処に分けているが、この絵巻は8処のうち叫喚大地獄にある16の別所中から4別所を取っている。


     第1段は髪火流(はつかる)地獄で、熱鉄の犬が罪人の足を喰い、鷲が頭を啄ばむところ。

     第2段は火末虫(ひまつむし)地獄で、火末虫という虫に吸い喰われて罪人が苦悶するところ。

     第3段は雲火霧処(うんかむしょ)地獄で、厚さ200肘の大火炎の中に罪人が投げ込まれるところ。

     4段は雨炎火石(うえんかせき)地獄で、上から火炎のある石が降って罪人を焼き、あるいは熱沸河で身を焼かれるところ。


『地獄草紙』は『餓鬼草紙』『病草紙』とともに、平安時代末期から鎌倉時代初めに流布した六道輪廻思想の盛んになるにつれて成立したものと思われる。2巻とも詞や絵は同筆ではないが、きわめて近似していて、あるいはもと数巻あった地獄草紙の一部とも推察することもできる。描写様式も自由暢達な描線を主とした動的なもので、生彩に富む画面を展開している。餓鬼草紙と同様、絵仏師系統の筆になるものであろう。
地獄草紙はこのほか、模本で知られる2巻がある。(東京国立博物館蔵)このうち1巻は『起世経』の「阿毘至大地獄」から2段、『正法念処経』「阿鼻大地獄」から3段を描き、他の1巻は同じく『正法念処経』「阿鼻大地獄」から5段を描いている。この2巻は、あるいは原本が上記博物館の両本と一類であったとも考えられる。なお、もと益田家の所有であった2巻のうち、1巻は沙門地獄草紙、1巻は辟邪絵であることが知られ、制作年代もやや下り、別系に属すべきと思われる。


六道絵(15幅)
滋賀県
・聖衆来迎寺
絹本着色、各縦156cm、横68cm
鎌倉時代(13世紀)

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と『平家物語』がその巻頭で詠っているように、平安初期から鎌倉時代にかけて末法思想と争乱の世相を繁栄した無常観が世人をとりこにしたが、浄土教はこのような背景のもとに人心の救済を追及したものであった。
日本浄土教は平安中期、恵信僧都源信(942〜1017)の『往生要集』撰述を契機として急速に広まったが、この『往生要集』の内容は人生の無常を説きつくして余すところなく、その果ては否が応でも浄土思想に入信せざるを得ない鋭い説得力を持って人々に迫ってくるのであった。
『往生要集』の第1章は厭離穢土(みにくいこの世を離れること)を説き、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天のいわゆる六道の無常と、六道に輪廻する限りにおいては、その無常から解放され得ないことを、きわめて具体的にかつ深刻に描写し、第2章以後に極楽浄土の楽しみとを細説するのである。
ところで、本図はまさにこの『往生要集』の教義内容のうち、あたかも厭離穢土に当たる部分を主題とし、

地獄の諸相
(等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、阿鼻地獄)
餓鬼道
畜生道
阿修羅道
人道の諸相(不浄相、苦相、無常相)
天道

をもって15図中の12図に描き分け、このほかに『往生要集』第7章の念仏利益の項に当たる譬喩経及び憂婆塞戒経所説の念仏功徳の2図を加えている。ただ、閻魔王庁の1図だけは『往生要集』に説いてないが、『要集』の大焦熱地獄の上で、地獄の苦相を説かずに閻魔王庁のことに触れるところがあるので、この1図に該当するものかもしれない。以上のように、この15幅は『往生要集』の中の主として六道を主題とした作品といえる。
地獄図は全15幅中最も凄惨を極め、冥官の肉身や土坡(どは)、樹木などの骨法に厳しい宋画の手法が見られ、色調も強烈である。これに反して、餓鬼、畜生および人道の諸相では主題の差にかかわらず、背後の風景や市井の情景に主として大和絵の手法が目立ち、色彩も比較的穏やかに見える。しかし、これらの手法の差にもかかわらず、主題の表現はいずれも巧妙で、よく世相の無常を描き上げていることは注目される。
このように、本図は大和絵と宋画の手法を併用するが、宋画的手法の中に鉤勒と没骨とを使い分けたり、また墨画だけを使用するなど、きわめて自由奔放な筆技を用い、鎌倉時代における我が国画壇の宋様式摂取の姿を伝える。また、その中に盛られる風俗が当時の庶民の生活を伝える点も貴重である。
本図は、古来『十界図』(六道に声聞、縁覚、菩薩、如来の四聖界を加えたもの)30幅のうちの四聖界図15幅を失ったものとして世に言い伝えられてきたのであるが、昭和30年の修理に際して、旧軸木にある正和2(1313)以来8回の修理銘と比叡山霊山院伝来の記、あわせて『六道絵』15幅が一括して伝承された由来も明らかとなり、名称を『六道絵』と改めるに至ったもので、旧軸14本(1本欠)を付(つけたり)とした由縁もまたここにある。
なお、この修理銘から見て、本図の制作は鎌倉時代もかなり早期にさかのぼることが予想されるが、当初からの15幅が保存良好の状態で完存することとも合わせて、鎌倉時代浄土教の異色ある遺品としての価値は高く評価されるべきであろう。

なお、本図がもと存在した叡山横川霊山院は、恵心僧都現身の怪異になる寺で、ここに伝来した威儀も深いが、これが聖衆来迎寺に移転したに着いては、元亀2(1571)年、織田信長の叡山焼き討ちによるものと伝えられる。

鉤勒(こうろく)と没骨(もつこつ)

いずれも中国花鳥画の技法で、前者は輪郭を細かい描線でくくり、その中に彩色を施すもの。後者は輪郭線を用いず、水墨や色彩の広がりだけで形体を表現する手法。






餓鬼草紙

京都国立博物館蔵
紙本着色、縦27cm、全長541cm
鎌倉時代(12世紀末)

京都国立博物館の『餓鬼草紙』は、もと岡山の曹源寺に伝来したもので、昭和28年国有となった。東京国立博物館本も、同じ岡山の河本家の所有であった。

『餓鬼草紙』は『地獄草紙』などとともに、当時の混乱した世に流布した六道輪廻思想に基づいて制作されたと考えられる。

図に象徴されたように、餓鬼は常に飢えと渇きに苦しんでいる醜くて汚らわしい存在であり、彼らは現世の悪業の因縁で餓鬼道に堕ちるとされる。当時、地獄や餓鬼の存在は非常に人々の関心を高め、このように絵画や説話集にも少なからず残されたものである。

京都国立博物館本は、詞絵各7段があり、その内容を述べると、第1段は食水餓鬼を表わし、川を渡った旅人の足の滴(しずく)をなめて渇きを癒す光景、第2段も食水餓鬼で、卒塔婆にかけた諸人の手向けの水滴をなめるところ、第3段、第4段は連続した話で、目蓮尊者が餓鬼となった母に食物を与えるという物語、第5段は食水餓鬼で、500の餓鬼が恒河のほとりにいながら水が飲めなかったが、仏の説法を聞いた後、水が飲めるようになりやがて衝天する。第六段は焔口餓鬼で、口中から出る炎に苦しむ餓鬼が阿難尊者によって救われるところ、第7段も焔口餓鬼で、餓鬼が仏法の力で一比丘によって食物を得る話を図す

これらのうち、第1、第2、第5の3段は『正法念処経』(しょうほうねんじょきょう)、第3、第4は『盂蘭盆経』(うらぼんぎょう)、第6、第7の両段は『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』の所説によっている。



餓鬼草紙

東京国立博物館蔵
紙本着色、縦
27.9cm、全長384cm
鎌倉時代(12世紀末)
東京国立博物館本は詞書が全くなく、絵10図のみであるが、『正法念処経』に説く36種の餓鬼に対応してみると、その名が判明する。

それによれば、第2段は出産時の嬰児の便をうかがう餓鬼、第3段は糞尿を食べる食糞餓鬼、第4段は墓地で死屍(し)を食べる疾行餓鬼、第5段は糞尿のたまった池でこれを食べる食糞餓鬼、第六段は鷲などに襲われる広野餓鬼、第7段は火を食べる食火餓鬼、第8段は羅刹に責苦を受ける塚間住食熱灰土餓鬼、第9段は食物を嘔吐させられる食吐餓鬼をそれぞれ描いたことが分かる。第1段、第10段は、今正確な餓鬼名を当てることができない。

伏見宮貞成親王(後崇光院)の日記である『看聞御記』嘉吉元年(1441)の条を見ると『六道絵11巻』の記事があり、巻子本の六道絵、即ち餓鬼、地獄などが一揃いのものとして作られていたことが知られる。現存する遺品がそれに当たるか否かは決しがたいが、あるいは六道絵と呼ばれて一括されていたと推察することも可能であろう。
両者とも、描写は墨線を生かした、きわめて活気にあふれた画風であり、色彩も濃彩を避けた温雅なもので、同筆とはいえないがはなはだ近く、両者に目立つ差異はない。筆者を古くから常盤光長(ときわみつなが)に当てているが、むしろ鎌倉初期を下らぬ頃の絵仏師系統の作品と考えるべきであろう。