『方丈記』に記された「五つの不思議」
物心ついて以後、40年に及ぶ人生の中で出合ったことの中で、特に異常なものを長明は『不思議』と呼び、その事例五つほどを語る。
@安元の大火
1177(安元3)年4月28日、強風が吹き荒れた不穏な夜のことである。戌の時剋(午後8時前後)、都の東南から出火。火は西南に移り、遂には大内裏に至って、朱雀、大極殿、大学寮、民部省などは一夜のうちに消失した。
火元は樋口富小路に仮設された舞人の宿舎と噂された。一帯に吹きすさぶ風によって各所に延焼し、その範囲は扇状に広がっていった。火から離れた家も熱気によって煙を発し、近い家は焔が風圧のために地に吹きつけるすさまじさであった。空は吹き上げられた灰に火が反射して赤々と染まり、その中を吹きちぎられた焔が数百mもかなたに飛び、それがまた新たな火災を生んだ。
そんな中にいる者の様は悲惨を極め、煙に咽んで倒れる者、焔に目をやられて死ぬ者もあったが、逃げ延びた者もすべて財産を失った。被害家屋は計り知れず、公卿の家の焼失が16であったことは確認されたが、それ以外は不明である。炎上区域は都の3分の1に及び、死者数十人が出たが、焼死した家畜などは数えることができなかった。
以上の回想に寄せる長明の所感は次の如くである。
「人の営み、皆愚かなる中に、さしも危うき京中の家造るとて、宝を費やし心悩ますことはすぐれてあぢきなくはべる。」
(解説)
長明は2度の京都の大火を経験したようである。その一つは1177(安元3)年4月の大火であり、もう一つは翌治承2年4月の大火である。23歳と24歳の時のことである。当時、人々はこの火事をその規模に応じて「太郎焼亡」「二郎焼亡」と呼んでいる。このうち長明は太郎焼亡のみを『方丈記』で述べている。
この「太郎焼亡」とは、4月28日夜、二条大路以南から五条大路にかけて左京の大半を焼き尽くし、町々百十余町を炎の中に飲み込んだものであった。京中に火事があった場合、市中の警備の任に当った検非違使は、火事の時限と火元、延焼した地域などを記録し、参向した検非違使らの名前を記録して報告する慣わしがあった。幸いにして、この時のことは検非違使として参向した清原季光(すえみつ)の日記に載っていて今日知ることができるのであるが、前に述べた検非違使の任務から考えて、大体その記録の内容は信用しても良いと思われる。
それによれば、焼失した官庁の建物の主なものは次の通りであった。大学寮、応天門と東西の楼、真言院、会昌門、大極殿、神祇官、大膳職、式部省、民部省、朱雀門。また、公卿の邸宅では、関白藤原基房、内大臣藤原基通をはじめとする13家。
周知の通り、京都の町は24mもの大路によって大きく区画され、これをさらに区切っている小路も12mの幅がある。こういった大路、小路を炎は跳び越えていったのである。桧皮葺の貴族の邸宅は炎をもらいやすいとはいえ、80mも道幅の朱雀大路を東側から西側へと跳び越えて、四条南にある藤原俊盛の邸宅を焼き、また、50m幅の二条大路を南から北へと炎を吹きつけて大内裏の門、舎殿を焼き払ったのであるから、まさに第一級の大火ということができよう。
余談ではあるが、この大火を目の前で見た画家の一人は、後になってこの猛火の勢いを思い出しつつ『伴大納言絵詞』の筆を取ったといわれる。
『方丈記』には記されていないが、翌年の次郎焼亡は、太郎焼亡で焼失した南の、左京の七条、八条あたりが灰燼に帰したものであって、太郎焼亡に比べれば焼失範囲もはるかに狭いものであった。
A治承の辻風(つむじ風)
1180(治承4)年4月29日、中御門京極あたりに発して、六条あたりに至ったものである。この風は、3、4町にわたって吹きまくり、その圏内にあった家は大小の別なく全て破壊された。建っていた地にそのまま押しつぶされたもの、桁(けた)と柱のみが空しく残っているもの、4、5町も遠方に門を吹き飛ばされたものなどがあり、ある家は垣が消失して隣とひと続きになった。家の中にあった資材は空中に舞い上がり、桧皮(ひわだ)、葺板(ふきいた)など屋根の材は散乱し、木枯らしに吹かれる木の葉を思わせた。塵も煙のように立ち込め、目を開けていることができない。一帯に轟音が鳴り響き、耳を聾するほどで、仏典にいう地獄の業風もかくやというすさまじさである。家が破損しただけでなく、その修復の際などで負傷し不具者となった人も多数出た。
「辻風は別に珍しくはないが、これほどのものは前代未聞である。偶然とは思われず、超越者の啓示ではないか…。」
若き日の自分はこのように疑ってみたと長明は回想する。この年が政事、軍事に多端を極めた年であったことによる自然な感情であろうが、そうした背景は文面に直接示されてはいない。
長明が生きた時代そのものの影は「第3の不思議」に至ってはじめて垣間見られる。これは天変地異の類ではなく、為政者の気まぐれによって起こった、いわば人災についての記事である。
(解説)
太郎焼亡の際に大極殿(だいごくでん)が焼け落ちたことは、数年後に、貴族社会に大問題を引き起こすことになった。
大極殿は即位の儀式をはじめとする国家的な行事の会場である。清和天皇の貞観18(876)年に焼けたが、間もなく再建され、180年を経て後令泉天皇の天喜6(1058)年に再び焼けるという不幸に見舞われている。後三条天皇の延久4(1072)年に建て直したが、この時人々は、
「今は世の末になる。国の力衰えてまた造り出さるること、難くもやあらん。」
と、その完成に驚き感嘆の声を発したといわれている。この延久の大極殿こそが治承元(1177)年に焼けた大極殿であり、太郎焼亡後、遂に再建されることがなかった。そこで、国家の行事は内裏の正殿であった紫宸殿(ししんでん)で行われるより仕方がなく、またそれが慣例となってしまった。しかし、治承元年の時点では、まだ高倉天皇は後継の皇子を持っていなかったが、いずれ皇位の継承ということを考えると大極殿の焼失という事態は深刻な問題を含むものであった。
そして、意外なことに、そういう事態は割合早くやってくることになった。治承4年、病弱であった高倉天皇は、生まれてまだ1年と少ししか経っていない皇子に位を譲ることになったのである。安徳天皇の出現である。当然、即位の式の問題が起こった。最も問題となったのは、即位の大礼をどこで挙げるべきかということであった。
大極殿以外の所で挙行された例は三つあった。
1)用税天皇の場合、大極殿が焼失したため、隣接の豊楽院を会場とした。
2)令泉天皇の場合、天皇の身体の具合を考えて、日常の御所に近い紫宸殿で挙行した。
3)後三条天皇の場合、大極殿、豊楽院もなかったため、太政官庁を使った。
朝廷はいずれにすべきかを公卿らに諮問したが、藤原兼実らの意見によって、紫宸殿挙行と決定した。はじめ、後三条天皇の例により太政官庁で挙げようとしたが、この時は太政官庁以外に宮殿がなかったのであるから「先例」とはできないとされ、兼実の、
「大礼は大極殿で挙行すべきが理の当然であるが、大極殿が焼失して未再建の今、理で決定することはできない。先例では豊楽院の例があるが、この宮殿も今はない。残された、例の紫宸殿で行うべきである。」
という主張が通ったのである。大極殿の消失ということは、このように貴族たちにとっては重大な問題であったのである。
B遷都
同じ年の6月、遷都が行われた。あまりに非常識な不意打ちである。平安京はすでに約400年余の歴史を経ており、嵯峨朝以来、ここが都であるのは自明で、不動の事実と思われてきた。突然の事態に人心は動揺したが遷都は強行され、天皇以下、しかるべき人は全て移住し旧都はひっそりした。栄達に望みのある者は争って新都を目指し、希望のないものは憂い顔で戸惑った。さしもの平安京も荒れていく。解体された家は筏に組まれて淀川に浮かび、新都での再建に備えられ、その家のあった地は瞬く間に畑と化した。当然、人心も一変した。新時代に対応すべく、馬や鞍が重んじられ、昔ながらの牛や車は廃れた。政権の及ぶ西国に領地を希望する者が多く、治安が悪い東北の荘園は有名無実化した…。
このようは雰囲気の中に長明は新都に旅する機会をもった。『方丈記』の記述の中に、その長明の目や耳によってとらえられた情景が、臨場感をもって浮かび上がる。
津の国(摂津国)の福原(神戸市内)と呼ばれた地に新都を見つけるにつけ、ここが都としての適性を欠いていることは歴然としていた。土地は狭く、都にふさわしい条理を割ることもできない。しかも、傾斜地で、北は山を背負い南は海に面している。波の音がうるさく、塩気を含んだ風が激しく吹き、神経にさわった。内裏は山の中にあるので、往年の「木の丸殿(このまるどの)」(斉明天皇の新羅侵攻の際に筑前朝倉に造られた黒き造りの仮御所)を偲ばせ、かえって清新で優美な感もあった。しかし、淀川を運び下したはずの資材がどうなったのか、移築した家はあまり見当たらず、空き地ばかりが目についた。
旧都はすでに荒れ果てたが、それに代わる新都は完成せず、実質的には都はどこにもない。人々は落ち着かない思いをしている。この地に古くからいた者は住むべき所を失って途方に暮れ、移住した人は新居を作る煩わしさを嘆く。路上の風俗も異様で、誰もが粗野な武士の風に習った。風俗の激変は乱世の兆候というが、まさにその通りで、日を追って世の泡立ちは激しくなった。人々が恐れたように、遷都は何の成果も見せず、逆効果に終わったことが明らかになって、その年の冬、新都は放棄された、再び平安京は都となったが、原状に復することはなかった。
古の聖帝の世には、国政の根本は人民への愛情にあったという。殿舎の不備もいとわず、民の貧しさを案じて租税を廃した故事もある。それに対して、現代の為政者の過酷さはあまりにも著しすぎる…。政治への批判は、本来『方丈記』の意図に反するところではなさそうに見えるが、これも世の虚しさ、いとわしさへの言及の一環なのであろう。程度の差こそあれ、この批判はいつの世にも該当するはずで、読者は自らも親しく経験しつつある政治の貧困に思いを馳せようが、続く『第4の不思議』の迫力によって、再び長明の若き目に連れ戻される。
(解説)
長明は言及していないが、京都の人々には、この後人災ともいうべきものが待っていた。
翌年になると、源義仲の軍勢が京都に入り、飢饉明け物資不足の市中で略奪を働くのである。これらは『平家物語』では義仲の粗野な振る舞いに象徴されてしまっているが、その実は多くの軍兵らの狼藉であった。1183(寿永3)8月には朝廷で諸卿に意見を求めたが、その一つの問題は次のようなものがあった。
「京中の狼藉、士卒巨万のいたすところなり。各々(源義仲、源行家)その勢を減ずべきの由、仰下さるべきのところ、不慮の難、恐るところなくんばあらず。これをいかんとす。兼ねてまた、縦(たと)い人数を減ぜらるといえども、兵糧なくば狼藉を絶つべからず。その用途、またいかん。」
この諮問に対して、公卿の中には義仲、行家が軍勢を減らしてくれることを望む声が大であった。
「義仲、行家のそれぞれに恩賞として与える国の他にもう一カ国ずつを与え、その国衙領からの収入をもって兵糧料に当てることとし、略奪行為を注視させることはできないものだろうか。」
という意見が出た。しかし、特別に一ヶ国ずつを与えることには異論が出て、
「用が済んだら、すぐその国を召し上げればよいだろう。」
「いや理屈の上ではそうだが、召し上げたら両人は没収されたかと思って遺恨に思うに違いない。」
とか、
「両人に合わせて一ヶ国を与える。」
という妥協案、
「それでは両人が配分を巡って喧嘩になる。」
などの反対意見も出て議論沸騰したようである。
これらは軍勢の狼藉に、いかに人々が悩んでいたかを物語るものであろう。しかも、このことは義仲が入京してわずか2日後のことであった。田舎者の狼藉とのみ片付けてしまうわけにはいかないようである。養和の飢饉後という事情を念頭において考えねばならない事態である。
C養和の飢饉
養和の頃(1181〜1182)、2年にわたって飢饉が続き、筆舌に尽くしがたいことがあった。
「あるいは春、夏日照り、あるいは秋、大風洪水など、良からぬこと打ち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく、春かえし夏植えうる営みありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。」
『方丈記』の中に頻用される対句仕立ての構文は、この時の惨状を記して一際冴える。
各地の民は正業を放棄して逃散し、山の中に隠れる者も出た。都では秘法が繰り返されたが、実効を上げるに至らない。人々の日常は万事につけて地方からの上納に依存していたため、飢饉の打撃は大きかった。たちまち都人の品位は失われ、窮乏の余りに財物を手放して糧を得ようと努める人が多かったが、彼らを省みる者はいない。まれに交換し得た場合は、金が軽んじられ、粟の価格が重んじられた。遂に乞食に身を落とす者が続出し、彼らの愁嘆の声が路上にこだました。
一年目はこのように暮れ、翌年に期待をつないだが、その年はさらに深刻の度を加えた。飢饉に加えて疫病が蔓延し、事態はなお悪くなったのである。
世人は全て飢え、日を追って死が迫る。その様は仏典にいう「少水の魚(わずかな水の中にあえぐ魚)」そのものであった。相当な身なりをした者の乞いの歩くのが見られたが、彼らの足取りはおぼつかなく、すぐに倒れて動かなくなった。道に餓死した者がおびただしく横たわり、放置されたので、その腐臭が立ち込め、骸(むくろ)は正視しがたいほどの変貌を見せた。もともと、死体を遺棄する場に当てられていた鴨河原に至っては、馬や車の行き来する余地もないすさまじさであった。さすがに屈強な山がつ(木こり、炭焼き)たちも飢えたため、薪の供給も乏しくなった。その用に当てるため、我が家を壊して市で売り立てる者も出たが、それで得た代価は一日の食糧にも足りない。中には、古寺の仏像、仏具を割り砕いて売る不心得者もあって、末法の世が現前したことが強く実感された。
一方、感動的な情景もなくはなかった。愛する者同士の場合、その愛の深い方が必ず先に死んだ。我が身を犠牲にして、僅かな食糧を相手に譲るためである。親子であれば、親が先立つのが常であった。死んだ母親の乳を吸う、稚(いと)けない子どもの姿もあった。
仁和寺の隆暁法印という人が、人々の死を哀れみ、亡骸(なきがら)を見るたびに、その額に阿字(梵字の第一の母音)を書いて成仏を図ってやったという。その及んだ人数を知ろうとして、その年の4月と5月にわたって数えたところ、左京の路上にあった亡骸だけで4万2300余りだったそうである。無論、これは部分的なもので、この2ヶ月の前と後、左京に含まれない周辺部、さらには全国的規模に広げて考えると、どれほど多くの人が死んだのか、想像もできない。崇徳院御在位の長承年間(1132〜1135)にもこんなことがあったというが、生まれる前なので知らない。今回の2年間は、直接その惨状に触れたことでもあり、衝撃は大きかった…。
『方丈記』の中で最も長文に及んだ飢饉の記述は終わる。都市というもののはかなさ、危うさはすでに明らかだが、長明はなおもう一つの「不思議」を語る。
D元暦の地震
同じ頃、具体的には1185(元暦2年)7月9日以後、大地震があった。この時の様は、地震というものの常識を超えるすさまじさであった。山は崩れて川を埋め、海面は傾いて津波が発生した。土に亀裂が走って水が湧き出し、岩石は割れて谷に落下した。渚を漕ぐ舟は波間に漂い、道行く馬は足元が定まらない。都の内外、至る所の建造物で無事でないものは一つもなかった。あるものは破損し、あるものは倒壊した。倒れる時に塵が煙の如く立ち上り、雷のような大音響を発した。家の中にいれば圧死しかねず、外に走れば地割れに怯えて足がすくむ。羽のない身で空を飛ぶわけにもゆかず、龍ならば雲にも乗れようものをなどと思うにつけ、最も恐ろしい災害はこの地震であると、今さらのように思った…。
『大福光寺本』はここから直接余震の記事が続くが、流布本系の諸本には次の挿話が記されている。
「その中に、ある武者の一人子の6、7ばかりにはべりしが、築地のおおいの下に小家を作りて、はかなげなるあどけなし事(たわいもない、たわむれていること)をして遊びはべりしが、俄(にわ)かに崩れ埋められて、跡形なく平にうちひさがれて(押しつぶされて)、二つの目など一寸ばかりずつ打ち出されたるを、父母抱えて、声を惜しまず悲しみあいてはべりしこそ、哀れに悲しく見はべりしか。この悲しみには猛き者恥を忘れけりと覚えて、いとおしく理かなとぞ見はべりし。」
『一条兼良(かねら)本』から引用しておいた。
再び『大福光寺本』の文脈に戻り読み進めたい。
大振動はしばらくして止んだが、余震は長く続いた。以後しばらく、驚くに至る振動が20〜30度繰り返されない日はなかった。10日、20日と経つ内に、次第に間遠になったが、終息するまでにおよそ3ヶ月を要したと記憶する。
仏教にいう「四大種(四元素)」のうち、水、火、風の三つはよく被害をもたらすが、大地は平生そのようなことがないものだ。昔、斉衡(さいこう)の頃(854〜857)、大地震が発生し、東大寺の大仏の首が取れるなどのことがあったが、今回ほどではないと取沙汰された。その当座は、誰もが世の無常を感じ、道心に目覚めたように見えたが、月日が経つ内に殊勝な気持ちも薄れ、この事件を話題にする人も少なくなった…。
「不思議」への回想はこうして終わる。
(解説)
この大地震の余震はその後も続き人々を悩ませた。その後、美濃や伯耆から上京してきた者の話では、これらの国々ではたいした地震ではなかったというし、琵琶湖の水が北へ向けて流れていったという噂も京に伝わってきた。比叡山や東坂本、三井寺、勧修寺、東山の西麓の白河一帯の建物の被害は特に甚だしいようであった。おそらく、比叡山の北の方が震源地であったのであろう。京中の築垣では東西面の破壊がひどく、南北面では被害が少なかったというから、その震動は東西に揺れたものであろう。
源平の戦いが終わり、捕虜となった平氏の一族を引き連れて、源義経らが京へ凱旋した年、貴族たちの間では宝剣が壇ノ浦で紛失して取り戻すことができなかったことに話題が集中していた。その年の7月9日、突如として大地震が起こったのであった。