(ひゃくれんしょう)

『百錬抄』は鎌倉時代後期にできた編年体の歴史書であるが、そこにはいろいろの史料からの記事が収録されている、貴重な記録である。
「養和元年正月、近日武士、人家に乱入し雑物を追捕(ついぶ)す。洛中静かならず。6月、近日天下飢饉。餓死する者、その数を知らず。僧綱や有官の輩にもその聞こえあり。
同2年正月、近日嬰児を道路に棄つ。死骸は街衢(がいく・ちまた)に満ち、夜々強盗あり。所々に放火あり。諸院の蔵人と称する輩、多く以って餓死す。それ以下は数を知らず。飢饉、前代を超えたり。12月2日、京中の人屋、去夏より壊(く)ちて沽却し、ほとんど人家なきがごとし。使庁に仰せてこれを制止すれども、なおとどめず。」
これらの記事は、もとはといえば、養和当時の貴族の日記などから抜粋したものと思われるが、貴族の日記からは『方丈記』ほどには飢饉の生々しさを窺(うかがう)うことはできない。それは一つには、彼ら市井の情報はすべて家人からの報告によっていることにもよるし、また貴族たちは飢饉の被害を一番最後に受けるからでもあろう。




養和元年 親鸞聖人9
建保年 
親鸞聖人42歳 
寛喜 親鸞聖人59
文応元年 親鸞聖人88


養和の飢饉(親鸞聖人9歳)
西暦でいうより、親鸞聖人の年齢で見たほうが理解しやすいと思いまして、聖人の年齢に置き換えました。
はじめの養和元年というのは、親鸞聖人が得度なさった時です。何で親鸞聖人がお得度なさったかということは、『御伝鈔』に「隠遁の志」とありますから、そうなんでしょうけれども、その隠遁の志を醸し出す、どういう背景があったのかということはあまり分かっておりません。あまりというよりか、資料がないのですから分からないのです。
ところが、この養和の飢饉という年は改元されて養和といいますが、治承5年に当たります。その治承5年という年は平家が滅亡した年であります。平家が滅亡した理由を経済史上の上で研究なさっている方の論文を読んだことがありますけれども、平家が滅亡したのは「飢饉」であると言っております。財政難であったということです。財政難は源氏方も同様であったでしょうけれども、平家の所領と源氏の勢力範囲との飢饉の差ということもあったのでしょう。そういう経済的な理由が大きく影響したという趣旨の論文であったと思います。
養和元年に親鸞聖人がお得度なさったのは、世が世であれば「射山にわしって栄華をも開くべかりし人なれども」云々で、栄耀栄華を極めるべき身なれども、隠遁の志によって慈鎮和尚のところでお得度なさったとありますけれども、その家庭崩壊ということの中に、治承、養和の飢饉が大きくかかわっていると思います。聖人がそのことを発言なさっているものはありませんから推測でしかありませんけれども、無関係ではないと思われます。
養和元年の時のことは『方丈記』に詳しく「養和の飢饉」と出ております。仁和寺の隆暁というお坊さんが市街に死体があふれて弔う者もいないその状況を見て、上は一条から下は九条まで、西は朱雀大路から東は京極まで。昔の京都の街区であります。その大路小路を歩いて、道路に倒れて死んでいる人々の頭に「阿」の字を墨書して弔った。その時数えた数が「三万四千三百余り何ありけりとぞ」とあります。真言のお坊さんは、そういうことをして弔ったのです。

建保2年の飢饉(親鸞聖人42歳)
今は、寛喜3年のことを書かれた恵信尼の手紙であります。『恵信尼文書』第3通であります。『恵信尼文書』を見ますと大変有名なエピソードがあります。
「寛喜3年4月14日午の時ばかりより、かざ心地少し覚えて…。」
とあるところです。4月14日から高熱にうなされて8日間臥された記述があります。その熱から覚めて、
「おかしなことがあったぞ。」
と。熱にうかされている間、目の前を『浄土三部経』の文字がキラキラと目の前をよぎる。
「いったい、これは何だと思うて反省したら、今から17、8年前、衆生利益のためにと『三部経』を千部読もうとしたことがあったけれども、その余残がまだあったのであろうか。自力の執心というものはまことに恐ろしいものである。」
とおっしゃったと記述されています。
『和讃』では、決して、してはならないと厳しく禁止されている有情利益を、親鸞聖人がなさったというのであります。『恵信尼文書』の記述は「有情利益する」方であり『和讃』の方は「有情利益をしてはならない」方であります。しかしながら、あの『恵信尼文書』も「した」という事実が載っているだけであって、それを肯定されているのではありません。
それは、寛喜3年の発熱を契機に過去を回想されたものでありました。
今それを歴史の年代順にして話を進めていきます。
では、建保2年という年がどういう年であったのかということであります。日本史年表で見ますと、建保2年という年は、政治的な事柄は若干載っておりますけれども、特別のことがあったようには書かれておりません。
しかし。『正法眼蔵随聞記』の中に、こういう話があるのです。
栄西禅師が建仁寺におられた頃、ある時、貧しい人が寺にやってきて、
「親子3人、ここ数日来、かまどの火を炊いたことがない。口に何も入っていないのです。飢え死にするのを待つばかりです。何か恵んでいただけませんか。」
と。栄西禅師が応対なさったのでしょうか、寺内をことごとく探索されたけれども、食料はおろか、着るもの、施すものがなかった。そこで、本堂に「光の料」にと蓄えられてあった銅を束ねて、
「これを売れば、親子3人、口を濡らすことができるであろう。」
と恵まれた。光背を作るための材料とか、お灯明料という解釈もされています。これを見ておった山内の諸僧が激怒するわけです。
「私どもも数日来、口に何も入れていない。しかも、あなたが与えられたのは、あなたの所有物ではない、仏法領のものではないですか。仏法領のものを勝手に他に与えたのは窃盗の罪に当たる。」
と。腹が減っているから、栄西禅師を憎んだわけです。栄西禅師がおっしゃるのです。
「仏法領のものを盗んで、その罪によってたとえ阿鼻地獄に堕ちても後悔することはない。」
「私どもは仏道を行ずる身である。仏道を行ずるために飢え死にするのであるならば、これこそ本望ではないか。あの人たちはそうではない。」
「釈迦は、わが身肉を裂き、我が手足を裂いて虎に与えられ、鳩に与えられたと教わっておる。もしこの場に釈迦がおられたら、自分の一身を投げ出してでも与えられたに違いない。」
そう、栄西禅師がおっしゃった。「皆泣いた」と書かれております。
同じような記録ですけれども、
やはり数日食料がなくて、寺内山内が飢えている時があった。ある大旦那が栄西禅師を招いて供養をした時、絹3引きをもらった。伴の者にも持たさず、栄西禅師は抱きかかえて喜び勇んで建仁寺に帰って、知事に、
「これで明日の粥を炊け。」
と。山内一堂、声を上げて喜んだ。その時に商家の者がやってきて、
「絹何引き用立てていただけないか。」
と言う。あれほど喜んで渡した絹3引きを栄西禅師は取り上げて、それを与えられたと。
「我々は飢えて死のう。しかし、仏道を行じて飢え死にしたという記録はない。」
とおっしゃった。
「皆また泣いた。」
という記録があります。
そのことを道元禅師が「見聞した」とは書いていらっしゃいませんが、道元禅師の感動ぶりから自らの見聞であろうと思うのです。これが道元禅師の見聞された事実であるとすれば、その時期はいつのことか。もう決まっているのであります。栄西禅師のもとへ道元禅師が弟子入りされましたのは道元禅師15歳の時、建保元年の春で、その1年半後の建保2年の夏には栄西禅師は亡くなっているのであります。とすれば、道元禅師が見聞された事実であるとするなら、建保元年か建保2年のことです。幕府から莫大な扶持を貰っている栄西禅師の住む建仁寺が飢饉に瀕している状況が1回ならずあった実態を示しているのであります。建保2年という年は、まことに、そういう飢饉の年であります。

記録と申しますものは、だいたいお公家さんの日記、寺社の日記、あるいは『吾妻鏡』のような幕府の公的な記録などでありますから、上流社会のことは書かれておりましても、下層社会のこと、庶民のことなど書かれてないのです。末端の農民がどんな苦しみをしたかということは明瞭ではありません。『吾妻鏡』や当時の記録を丹念に繰ってみますと、至る所で寺院で祈祷の法会が営まれています。そういう法会の記録がいっぱい連なっております。栄西禅師も鎌倉に招かれて「祈雨」、雨を乞う法会を営んでいらっしゃいます。大干ばつであったのであります。稲の穂も出ない。田んぼは干からびてほこりが立つような状況であったと書かれてあります。鎌倉幕府は、あまりの惨めさに年貢の減免を発令している記録があります。ですから、言語に絶する、たいそうな飢饉だったのであります。
恵信尼の記録によれば、
「武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにて…」
とあって、えらいあいまいな記録と思うのでありますけれども、地図で確認してみますと、まことに武蔵の国と上野の国の境界線のような所であります。現在の館林市界隈の佐貫というところで、親鸞聖人が『三部経』千部読誦せんとなさったのです。親鸞聖人の目前に展開している、木の根をかじり、蛇も虫も食らって、しかも幽霊のようになって死んでいく。その死者を葬る人もない。累々たる死骸が横たわっている状況を目の前にして、仏教徒として何をなべきか、仏教徒としてこの人たちのために一体何をしたらよいのか、そう問われたのではないでしょうか。それが『浄土三部経』読誦ということになったのでしょう。『三部経』を千部読誦して衆生利益を思い立たれたというのは、そういうことでしょう。
そこで親鸞聖人は反省なさるのであります。私どもは、そういう時、いつでもお経を読みます。それを当たり前のことにしております。これは親鸞聖人とだいぶ意識が違いますね。仏教の伝統的な行というのは、経典読誦であり、経典の解釈即ち学問であります。そういう伝統は叡山時代からずっと身についていたことです。だから『三部経』千部を読もうとなさった。しかし、4日ばかりで、念仏よりほかに有情利益の道はないと思い直してお止めになったのでした。

寛喜3年の飢饉(親鸞59歳)
そのことを、またぞろ17年か18年後の、寛喜3年に熱にうかされて『三部経』を読誦しようとする思いが親鸞聖人の心に去来したとは、いったいどういうことなのでしょうか。何があったのか、ということです。
『日本凶荒年史』の中には建保2年のことは何も触れておりませんが、寛喜3年のことについてはかなりページを割いて書いております。また藤原定家に『名月記』という日記があります。
その記述によりますと、寛喜3年は夏になっても綿入れを離すことができない寒さである。綿入れを着ることができたのは、お公家さんの定家だからでありまして、庶民は震えておったのでしょう。その夏の7月27日(太陽暦換算)、ちょうど土用です。日本列島のもっとも暑い時期です。その7月の27日、信濃の国が大雪であった。美濃の国(岐阜)も2寸の積雪。武蔵の国も雪と報告があったと書いております。真夏の土用の最も暑い時期に、日本列島が雪に覆われるという異常気象です。それが寛喜3年です。
9月の初め、まだ残暑で暑い時期、しかも四国の讃岐で霜が降った。そういう寒さがずっと続くのです。12月頃(太陽暦)になってぽかぽか陽気となり、コオロギが鳴く、セミが鳴く。麦が生える、タケノコが出る。モズが鳴く。2月(太陽暦)になってもセミが鳴き止まないと記録されている。これでは大飢饉必死であります。
それで、藤原定家は、庭園の松の木を全部切って耕して、自ら麦を蒔いた。公家が鍬を持って麦を蒔いた。笑えば笑え。こうしなければ生きてはいけない。死はもう目前にやってきていると言っています。そういう状況が寛喜3年です。日本凶荒史上、最も大きな飢饉の一つとして数えられているのであります。
そういう大冷害。大飢饉を目前にして親鸞聖人の心はまた大きく揺れたのでしょう。寛喜3年、親鸞聖人は59歳ですから、おいでになった場所は稲田の草庵でしょうか。その辺りの当時の歴史的な状況は分かりませんけれども、自分の教えに帰しておった農民たちがバタバタと倒れ、死んでいく。その姿を見て、またぞろ、この人たちのために仏教徒として自分がなすべきことはいったい何か。心が揺れたのでしょう。
こういう時に仏教徒は何をしたか。それを1、2見ておきましょう。
養和の飢饉や、建保2年の栄西禅師のことは紹介しましたが、寛喜3年より5、6年位前のことです。「承久の変」というのがありました。天皇様が鎌倉幕府に楯突いたのです。この変で敗北した天皇や上皇方についた兵が、京都の西高雄の山に逃げるのであります。
高雄山の明恵上人は、

「逃げてくる者は皆助けてやろう、隠れろ、隠れろ。」
とかくまったのです。鎌倉幕府の役人は、
「けしからん。」
と言って明恵聖人を縛って、北条泰時の所へ拉致します。縛られたまま、明恵上人は臆せず言うのです。
「釈迦善逝は逃れ来る鳩を救い、自らの身をも捨てて飢えた獅子に与えられた。命からがら逃れてくる軍勢があるならば、衣の袖にも入れ、袈裟の下にも隠して私は守る。もしそれが政道のために妨げになるのであったら、即座に私の首をはねられたまえ。」
と。『明恵上人行状』に出てくることです。そういうことをしたのが、場に当面した仏教徒なのでした。
これらは聖道の人々ですが、
「念仏申す私はいったい何をすべきか。」
そのことが親鸞聖人に『三部経』千部読誦という考えとなったのでしょう。
ある人が法然聖人に、
「千部読みて供養すべし候うべきか。」
と問うたのに、
「それは必要ない」
と答えられた。
「お念仏でいいんだ」
とおっしゃっているのでありますから、親鸞聖人もそのことは百も承知、千も承知でありますけれども、現実の社会情勢が、

「まことに本願の信はそれでよいのか。」
と大きなゆさぶりをかけてきたのであります。
その揺さぶりに親鸞聖人の他力の信心が大きく揺らいだのです。
「信心が揺らぐというのは、他力の信心でなかったのである。」
という発表を私ども学生時代になさった方があったと記憶しておりますけれども。そうではないのです。他力の信心というのは、問題が起こったらパッと反応するというようなものではないでしょう。歴史にない、大きなゆさぶりがかかった時に大きく揺れるのでしょう。しかし、左右に大きく揺れますけれども、やがて正常な、元の姿に復元する。これが信心の行者の姿ではないでしょうか。
「雑行を棄てて本願に帰す」
とはあるが、

「あの時はまだ本物ではなかった…」
「あれは間違いで…」
というようなことではないと思います。

文応元年の飢饉(親鸞聖人88歳)
そういう親鸞聖人の晩年になりまして、また大きな事件が起こりました。それが『末灯鈔』の第6通、『浄土真宗聖典』では第16通のお手紙です。40数通あります消息の中で、この文だけが「善信」と署名されています。文応元年11月13日のお手紙でありまして、日付の入っているお手紙では、聖人の晩年の、最も遅い日付のものであります。
「何よりもこぞことし、老少男女多くの人々の死にあいて候うらんことこそ哀れに候へ。ただし生死無常の理、詳しく如来の説き置かせおわしまして候う上は、驚き思しめすべからず候う。」
(去年と今年、多くの人が死んだことは哀れである。しかし、生まれた者が死ぬということは、お釈迦様がお経に詳しく説いておいでのこと、驚くことはないぞ。)
と言われるのです。なんと冷淡な手紙ではないかと思わせるような文章であります。これは、乗信房という関東のお弟子から来た手紙の返書であって、内容は、人間の死に様は問題ではない、信心をいただいているか、いないかということが問題なのであって、人の死に様のことは問題ではないということが書かれている手紙であります。
私は、聖人のこの返書を読みまして、乗信房は聖人にどういう手紙を出したのであろうかと考えるのです。乗信房は親鸞聖人に何を訴えたのか。この親鸞聖人の返書を通しての推測でありますけれども、文応元年という年は、これもまた猛烈な飢饉であります。
『百錬抄』という書物を読みますと、
「京都の一条壬生の小尼が死屍を喰うた。」
と記述しています。飢えてですけれども、兵隊さんが喰うたというのではなく、お坊さんの卵である小尼が喰うたというのです。
「餓死の輩、その数を知らず」
とあり、日蓮上人の『立正安国論』に、
「餓死の輩、この国の半数にみてり」
とあります。日本人口の半数が餓死したという、そのような状況が文応元年であります。

これも大冷害によるものであります。関東の乗信房の周辺でも、親鸞聖人の教えを聞いてお念仏する人がバタバタと、まるで朽木が倒れるように、歩いているかと思えば倒れ、倒れたら再び立つことのできない姿である。そのような状況にいたっているのに、
「念仏者を如来はお救いくださらないのか。」
「大慈大悲の如来の救いは念仏者の上に働いてはくださらないのか。」
という不信を親鸞聖人に出したのではないでしょうか。
「如来は何をなさっているのだ。」
という不信です。
遠藤周作氏の『沈黙』で、ロドリゲスという宣教師が座敷牢で、毎晩どこからともなくうめき声のようなものを聞く。
「あの音はなんだろう。」
と役人に聞くと、
「地下牢で逆さ吊りにされているキリスト者がうめいている声だ。」
と言う。
「その人たちは、それほどまでしてなお転ばないのか。」
と重ねて聞く。
「彼らはとっくに転んでいる。」
「それなら助けてやったらどうだ。」
「あの人たちを救う道は一つ。それはお前が十字架の上に足を乗せることである。この絵を踏むことである。」
と。
ロドリゲスが祈るのです。
「神よ、神よ。彼らを助けたまえ。私はキリスト者として、何をなすべきなのでしょうか。神よ、助けたまえ。」
と祈るのですが、神は無言のままです。これが「沈黙」ということでしょう。
そういう状況が乗信房にもあったのではないでしょうか。如来様のお救いは私どもの上にない。それに対する不信感のようなものを親鸞聖人に訴えたのでしょう。
その時、親鸞聖人はもう88歳、このたびは揺れることがなかったのです。42歳の時に大きく揺れ、『三部経』千部読誦しようと決心し、59歳の時にも大きく揺れ激しく悩んだのでした。しかし、そういう試練を通り越してきて、88歳の親鸞聖人は、もうどんな無常の姿が目前に現前しようと驚くことはない。お釈迦様が、この世は無常であるとおっしゃっているではないか。人生は苦悩の世界である。無常なることは苦悩の姿である。無常が、苦悩の世界が私の前に現前することこそが、お釈迦様の説法が真実であることを裏付けているのだ。私どもは、
「いかにいとほし不便と思うとも、存知のごとく助けがたければこの慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ末通りたる大慈悲心にて候うべきと云々」
と、周辺のお弟子たちに語られたのが『歎異抄』第4章であろうと思うのです。親鸞聖人の周辺に若い人たちが何人かいたでしょう。唯円房もその一人であったに違いありません。乗信房からの手紙を見、都でも飢饉の苦しい状況が展開していたと思います。無惨な姿が展開されていたのでしょう。そういう状況の中にいる若い人たちが、
「乗信房に対してなんとお答えになるのですか。」
「こういう時、我ら仏教者は、念仏者は何をなすべきなのでしょうか。」

と聞いたのです。それに答えられたのが『歎異抄』の第四章、
「慈悲に聖道浄土の変わり目あり。聖道の慈悲というは、ものを哀れみ、悲しみ育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐること極めて有難し。浄土の慈悲というは、念仏して、急ぎ仏になりて大慈大悲をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。いかにいとほし不便と思うとも、存知のごとく助けがたければこの慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ末通りたる大慈悲心にて候うべきと云々。」
この章は、そういう背景をもって読んだ時、初めて、
「まこと、そうだったのか。」

と読めるのではなかろうかと、私は思うのであります。(霊山勝海)