野生司香雪
野生司香雪(のうす・こうせつ)1885〜1973。
明治18年11月5日、香川県檀紙村(現高松市)生まれ。本名述太(のぶた)。父(義問)は浄土真宗の僧侶。
36年、香川県工芸高校を卒。東京美術学校日本画科に進み、41年卒業。卒業制作に「黄泉」を描く。
40年、東京勧業博覧会に「しずか」入選。
44年、美術研究会正会員になり、大正4年同会第13回展で「月の香」三等賞。
大正3年、再興日本美術院に研究会員として参加。5年院友となる。翌6年から仏教美術研究のためインドに渡り、荒井寛方を助け、7年にはアジャンタの石窟壁画を模写した。帰国後に8年、京都帝室美術館などで模写展を開催した。そのころ第9回院展(昭和9年)に出展した「窟院の朝」他、「印度アジャンタ窟院途上の巻」「大雪山」「恒河の畔」などインドに取材した作品を描く。
昭和7年、インド・サルナートの初轉法輪寺壁画を、急死した桐谷洗麟にかわって製作開始。11年完成。壁画の下絵は25年、永平寺に献納された。
22年、信濃・善光寺雲上殿壁画完成。その後しばしば脳出血の治療を繰り返しながらも製作を続けた。48年、仏教協会より仏教美術賞を受けた。昭和48年3月28日没。

(「近代日本美術事典」1989.9.28 講談社 参照)


(左)『春山図』  (中)『優婆夷図』  (右)『鰐に兎図』





『大阪毎日新聞』掲載記事

釈尊生誕の聖地インド、ベナレス郊外サルナートに建立された大伽藍ムラガンダー大寺院の大壁画『釈尊一代記』の揮毫を委嘱されて、昭和7年故国の春を後に単身インドに渡った日本美術院友野生司香雪画伯は、異郷の風土と資金の欠乏に悩まされながら苦行精進を続け、世界に誇る仏画の完成に畢生の心血を注いでいたが、画伯のたゆみなき不屈の精神は各方面の涙ぐましい支持によってついに不滅の大作を完成し、16日ベナレスから文部省石丸学芸課長あて『ヘキガカンセイ、ノウス』と感謝にあふれる電報がもたらされ、ついに世界的大仏画は満4ケ年の日月を閲(けみ)して完成を告げ、美術界を狂喜せしめている。
野生司画伯が桐谷洗鱗画伯の後を受けて、文部省の推薦で、この壁画を描く闘志に燃えつつ日本を発ったのが5年前の春。ベナレスに着いた画伯は直ちに制作に取りかかったが、炎熱灼くがごときインドのこととて、絵具は片っ端から乾き変色していくという始末。苦心惨憺して従来使っていた動物植物性の絵具を捨てて金属製の絵具によるこことし、折角描き上げたものを塗りつぶし最初から描き直すという苦難に直面したほか、「大菩提会」からの制作費一万円では資金が続かないので、雨季である6月からの半歳を資金調達期間にあて、インド各地に個展を開き制作費、生活費を得るなどの苦心をなめ、大壁画完成までは死すとも帰らぬ意気をもって仕事に没頭したのである。
この血と涙の芸術生活を黙視するに忍びぬとあって、「国際文化教会」では一昨年二千円の補助を行い、さらに今年は五千円の補助金を贈って美術日本の国威発揚に力をかし、「インド協会」や横山大観画伯は、せめて後顧の憂いだけはさせてはならぬと『野生司画伯後援会』を作って、いつき夫人と令息義彰君(一高在学中)の生活を安定せしめてきたなどの美談が、この裏に織りこまれている。

石丸学芸課長談
野生司画伯が、簡単ながら「完成した」という電報が着きました。
野生司君は院展の院友であり、52歳。この壁画が出来あがるまでの画伯の苦心は語り尽くせぬが、各方面の後援で、ここに完成をみるに至ったのは全く美術界の大きな誇りといわねばならぬ。令息などは、画伯がインドへ渡ってからどんな生活を続けているかと、父君の身上を案じて、一昨年わざわざインドまで出かけられたくらいで、郷里香川県に帰っているという夫人も、この喜びを聞いてどんなに感激されるか知れない。いずれ帰朝する報せが来たら、大々的に歓迎の準備をしなければなるまい。
壁画は壁といわず天井といわず、釈迦誕生から涅槃までの一代を絵にしたもので、壁面の横だけでも25間に20間、全部で90間という巨大なものです。(東京発)

昭和11年4月18日付『大阪毎日新聞』


「不朽手記」挿絵の写真
ルンビニー(左)        カシア(右)

サールナート大仏教壁画顛末記

佐藤哲朗氏『大アジア思想活劇』 より転載
http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/2chap17.html



建設当時

サールナート外観

野生司画伯、壁画を描く
インドからの呼びかけ
1931(昭和6)年11月、釈迦牟尼最初の説法(初轉法輪)が行われたとされるインド北部のサルナート(鹿野苑)に、大菩提会の勧進によって『初轉法輪寺』(Mulagandhakuti Vihara 根本香精舎) が完成する。初轉法輪寺の開寺式は同年11月11日から3日間に渡って執り行われ、その間サルナートに1000人近い訪問者を宿泊させた。その半数以上が海外からの参列者であった。
その翌年の3月、インド大菩提会から日本の仏教関係者にあるメッセージが届く。寺院内壁にブッダの生涯をテーマとした壁画を揮毫するために、日本人画家を派遣してほしいとの要請であった。インド仏教寺院の壁画を日本人に依頼する…この発議には、現地でも、「インド美術界を軽視するものだ」として強い異議が出されていた。しかしダルマパーラは日本人画家の招聘に頑として固執し、反対を退けた。
大菩提会からのアプローチに対し、日本では『日印協会』が窓口となって折衝にあたり、画家の桐谷洗麟を渡印させることが決まった。桐谷は岡倉天心の設立した日本美術院を通じてインドへ渡り、アジャンタ石窟寺院で仏教絵画を模写した経験を持ち、御殿場の社会会館楽山荘に仏伝壁画22面を揮毫していた。まさにうってつけの人材だった。しかしあろうことか、桐谷はインド出発を目前にして病を得、7月19日に急死してしまったのである。
この事態を受けて、インド大菩提会は弔電を送るとともに、改めて外務省と文部省を通じ画家の選定を依頼してきた。日印協会での協議の結果、やはりインドでアジャンタ石窟を研究した実績があり、詩聖タゴールとの交遊もあった野生司香雪を派遣することが決定された。
野生司は助手の河合志宏(彼は当初、桐谷の助手として渡印する予定だった)を伴い同年10月26日に東京を発ち、11月25日、カルカッタに到着した。
「翌日原領事、西館長に伴われ、大菩提協会に仏教復興の偉勲者として輝くダンマパーラ尊者を訪うた。尊者の庵室に入り先ず印象されたものは香に霑う堆き梵典であった。尊者は余達の姿を見るや、従者を促してやをら病体を床上に起した。奄沒羅色の衣に包まれ円頂痩頬白眉を長く垂れて、さながらガンダーラ古彫刻そのままである。彼は老眼早くもうるんで余達の遠来を謝し、仏教美術の遠き日本からの招来を喜ぶとて、病苦を忘れたる如く、滾々と流泉の長広舌に時を移し、余等は薄暮窓にせまりて漸く席を辞した。」
次に野生司は詩聖ラビーンドラナート・タゴールのもとを訪れた。タゴールも初轉法輪寺の壁画計画に関係があり、かつ最初は壁画揮毫をタゴールの弟子筋である画家ナンダラール・ボーズと、ロシア画家ニコラス・ロウリックに依頼するという話もあったからだ。タゴールは野生司を温かく迎え入れ、強い激励の言葉をかけた。
「印度と日本とは民族と歴史とを異にする為に、芸術も異なっているが、この異なった両国の芸術を融合して、一つのものを作り上げるというのは洵に至難事である。君がこの度、佛教の為に描いて、印度に遺していこうという壁画は、印度人が多く見るのであるから、印度人に理解されるようなものを描いてくれ、それには不断に培われた佛教精神によって最善の努力を払ってくれ。」
タゴールの言葉に野生司は戸惑った。
「何等信仰もなく、また幼稚なる技術しかもたない私が、与えられた僅の時間に於て、お言葉に副うということは不可能である。」
対してタゴールの曰く、
「それは、君が佛に献身するということに依って、総べては盡きるのである。」
しばし沈黙ののち、野生司は、
「いま私に与えられた詩聖のお言葉は、私にとって、こよなき金言である。この言葉に報いて、再びお目にかかることが出来るならありがたい。」
と礼を述べ、詩聖のもとを辞した。
現地にくすぶっていた日本人画家に対する反感も、インドに因縁の深い野生司の来訪によって薄らいだ。壁画揮毫に日本人が起用されたことに、「インド人画家の存在を無視するもの」として反対の論陣を張っていたムクール・チャンドラ・レー(カルカッタ官立美術学校長)が、旧友の野生司の渡印に接して態度を一転させ、歓迎に回るという微笑ましいエピソードもあったという。
サルナートでの画業
そして現地へ。野生司はひさかたぶりにサルナート(鹿野苑)へと降り立った。
ヒンドゥー教最大の聖地ベナレス(バラナスィー)の近郊にある、静かな仏蹟である。野生司は半壊の姿をさらすダメーク・ストゥーパと対をなす、新築の初轉法輪寺を仰いだ。
「鹿野苑は15年前会遊の地、一木一草皆悉く懐しく、殊に昔ながらに魏然たる法塔を仰いでは、佛恩を合掌した。…この丘に眠れる白像の如く眼を射るものは、再建の初轉法輪寺であった。紺碧の空に屋根のスカイラインは一際たちて輪喚の美を壇にし、佛教建築特有の香りにつつまれたものである。伽藍の内部は内外陣に分れ、内陣には須弥壇上高く説法印の佛座像を奉安せられ、五色の妙光は香華にたゆとうている。外陣は6間に10間、鏡の如く磨かれた白光の大理石に敷きつめられ、四面の壁は白亜滑にして、これなん絵を需めて佛陀在世80年の事蹟を画伝せんとするものである。」
野生司と助手の河合、そして二人の身の回りを世話する、ヒンディー語が巧みな通訳を兼ねた日本人老婆…。異境での共同生活、聖地での画業がスタートした。
しかし、野生司は絵筆をとるより先に、まず寺院壁面を「画面」へと作り替えなければならなかった。そもそも初轉法輪寺の内壁は壁画の揮毫を前提として作られたものではない。キャンバスは三つの入り口と数ヶ所の上窓によって無粋にも分断されている。しかもコンクリート壁面に直接揮毫しなければならないという悪条件が重なった。そして北インドの自然もまた、野生司の画業に立ちはだかった。壁面コンクリートのアクは大地を焼き尽くす熱波と雨期の湿気によって染み出し、容赦なく絵具を変色させていった。野生司は自らの絵具をいちいち東北帝大にいる友人の八木精一(薬学博士)に送り付け、成分の分析を頼んだ。自らも寺院内壁にさまざまな実験を重ねて、長期間、変色に耐えうる下地と絵具とを選んでいった。



ダルマパーラとの衝突
実際に壁画の揮毫にとりかかる段になっても、こんどは野生司とダルマパーラとの間に画題の扱いをめぐるトラブルが頻発した。
「インド南北所伝の大小乗仏教はその教義と仏伝とに於いて一致せざるところ少なくない。インド大陸に現存せる仏教美術の多くは大乗系のものであることと、又余が年来の親みより大乗系のものに傾いて描写せんとするに、依頼者側の大菩提協会は南方セイロン僧の集団であるので、北方大乗系に縁が薄いのみならず、彼等の論拠とするところは何時も仏陀の説法が当時の通用語パーリ語で説かれあるので、その語にて記録せるパーリ原本の南方所伝こそ原始仏教として事実を物語るものであると主張したのであるが、さりとてその説を悉く採用する訳にも行かず、その取捨には相当悩まされたのである。」
二人の間には、日々、南北仏教の教理の違いに基づく煩瑣なやり取りが交わされた。ダルマパーラは初轉法輪寺の壁画に並々ならぬ熱意を見せていた。それに応える野生司も勿論必死だった。野生司はまず最初に、西壁の大きな場面に掛けられる壁画中最も大きな「降魔の図」にとりかかる。
釈迦は前正覚山での6年間の苦行に挫折した後、ニーランジャ河ほとりで村娘スジャータから乳粥の供養を受ける。蘇生した釈迦はブッダガヤの菩提樹下に結果趺坐し、悪魔どもの誘惑を退けてついに正覚を得るのだ。ブッダの生涯のハイライトとも言うべき、この大画題を先にしたのは、
「万一にも未完成のまま倒れることがあっても…」
という悲壮な覚悟ゆえであった。
…この構図中尊者ダンマパーラは毎日のように来り、図様に対し彼是と意見を挿まれる。若し尊者の意見に従い得ざる時は、確たる根拠を示さない限り、彼は一歩も譲ろうとしないで随分困った事もある。その最も論難とせしは仏陀の印相である。彼は構図の仏陀が右手を膝に伏せて垂れたる印相を指して、これは瞑想の手印なれば掌を表にせよと説く。余は反駁してそれは興願の印なり、又印度に現存せる仏像古彫刻中貴説に符合するものは、ブッダガヤの本尊をはじめ多数のものにその例を見ず、僅かにアジャンタ窟院の壁画と彫刻とにそれを見るのみであると応答したが、彼は曰く、降魔の僅かに5分間の刹那の印相は必ずかくあらねばならぬと、遂に譲らずして大いに困ったのであった。かくの如くその他の構図にも南北の異論続出してその都度随分困らされたが、尊者入寂してより最早かかる問題はあまりに起こらなくなった。しかし顧みればかれの反駁こそその悉くが研究の対象となりて、余をして不知不識の間に磨励せしめたのであった。」
そして「降魔成道」完成の日。
…降魔成道の壁画が完成した時、ダンマパーラ尊者は従者と共に来り、絵の隅から隅まで仔細に鑑賞して正面に立ち、壁上なる仏陀に対座して暫く瞑想の後余と言葉を交わし、アヽこれで宿望を達したと釈然として語った。」
釈迦牟尼世尊の右手のひらは、ダルマパーラのリクエストどおり、たなごころを表に悠然と魔を退けていた。
相次ぐ外護者の死
渡印の翌年、1933(昭和8)年1月には野生司の後援者であった渡辺海旭が急死する。追いうちをかける如く、4月29日には彼がインドでの親と頼みにしていたダルマパーラも入寂した。このとき、野生司は東西の支柱であった二人の外護者を、ほとんど時を同じくして失う最悪の事態に陥ったのである。
野生司は当初5、6ヶ月で完成すると見積った予算しか持ち合わせておらず、その資金は既に尽きていた。彼の画業はまだ半ばにも至っていない。
「壁画の作業は10月より翌年の4月まで描くので、4月の中旬になると、鹿野苑の気温は110度内外の灼熱に爛れる。壁は熱のため絵具の使用に自由を得ないので中止を余儀なくされる。それで5月から9月までの間は酷暑を避けて小品の制作に力をそそぎ、その作品を大方の同情に處分して資金を調達するのである。そのため5月から9月の5ヶ月の永い間も壁画の下絵だにみることが出来ず、小品の制作には日なお足りないのである。かくして資金を稼ぎながら前進するのであるから、一日の途を二日で歩むということを免れない。」
野生司は避暑地であるシムラから初めてボンベイ、コロンボ、マドラス、カルカッタ、ラングーンと次々に個人展覧会を催した。
「何時も日本人間の同情に依って、予期以上の成果を挙げ、かくして資金を得ては一歩進み、また一歩進むという風にして…」
野生司は描きつづけた。なかでも1935(昭和10年)10月、セイロンはコロンボで個展を開いた際には、ダルマパーラの遺族が野生司に住居を提供し、セイロン各界あげて彼をバックアップした。渡印から5年目の1936(昭和11)年4月15日、野生司は全壁面に30の画題を描き了え、長きにわたる宿願を成就せしめた。


成就の墨跡
揮毫から60年以上を経た今も、野生司の壁画は北インドの厳しい気候に耐え続けている。ブッダガヤの大塔を模した、重厚な石造りの寺院。本尊に据えられた金色の釈迦座像は、サルナート考古学博物館所蔵の有名な初転法輪座像の、あまり出来の良くないレプリカ。北インドの風土と張りあうにはいささか淡泊にも思える、日本画風の仏伝壁画…。
ムラガンダクティ・ヴィハーラの佇まいはどこまでも統一感に欠けたままだ。しかしそんな「持ちよりの聖地」に、ホコリまみれの巡礼たちは黙々と、五体投地を繰り返していた。色あせて中間色にぼやけたブッダの生涯を、食い入るように見つめていた。
野生司が絵の具の色を奪うコンクリートの灰汁と格闘していたとき、突き止めたのは、日本の墨の、絶対に色あせぬ事実だったという。その墨をもって、画業の終わりに記されたのは、次のような言葉であった。

此壁畫ハ大菩提協會ヨリ日本政府を通ジテ依嘱セラレ、佛紀二千四百九十八年ヨリ同二千五百二年ニ至リテ完成ス。斯費用ハ英人佛教徒ビー・エル・ブロー トン氏ノ寄付ニ始リ他ハ畫作者ガ雨期ニ於テ幾多ノ作畫ヲナシ印度錫蘭緬甸ノ各地ニ數回ノ展覧會ヲ催シソノ収益ヲ以テコレニ當ツ残餘ハ日本政府及ビ日本印度民間篤信者ノ喜捨ニヨリテコレヲ支ヘタリ。今茲ニソノ有縁信士ノ爲メ謝意ヲ表ス壁画造爲ノ大願成就ハ偏ニ佛陀ノ廣大無邉ナル慈恩ノ賜ト合掌禮拝ス。
皇紀二千五百九十六年