にがびゃくどう
果てしない荒野をただ一人、西に向かって歩み続ける旅人がいた。あたりには人影もなく、身をよせる場所もない。
ただ空漠とした荒野がどこまでも広がっているばかりである。
旅人は、突如、背後に異様なざわめきを感じて振り返ると、遥か後方から刀を振りかざした盗賊の群れが追いかけて来るのが見えた。
それだけではない。後ろの左右からは、獰猛な野獣や凶悪な毒蛇が、この旅人を餌食にしようと先を争って襲いかかって来るではないか。
旅人は、恐怖に震えながら必死に西へ走る。
その時、忽然として火の河と水の河が行く手をさえぎって現れた。
まるで噴火口のように底なしの大地の割れ目から燃え上がって、焔々と空をこがしている火の河は、南の方に際限もなく続いているし、一方、これも底知れぬ深さをもった水の河は、逆巻く濁流をたたえて、北に向かって果てしなく流れている。河の幅は百歩ばかりだが、その光景は目もくらむばかりである。
二河の交わる中間に、一筋の白道が見え隠れしながら、東岸から西岸へ、細々と延びている。けれども、その幅はわずかに四、五寸の広さしかない。その上に、水の河から巻き起こる激浪に、いま洗われたかと思うと、次の瞬間には、火の河から吹き上げる猛焔に包まれて、あれどもなきに等しく、とても人が渡っていけそうに見えない。
旅人は逃げ道をさえぎられて、どうしようもない窮地に追いつめられた。
「この河は南にも北にも、辺りなく広がっていて、渡る所はどこにもない。それに中間の白道は渡るには狭すぎる。渡ろうとしても、所詮、火の中に転落するか、波浪に巻き込まれるか、死を免れることはできまい。後ろへ帰れば、群賊に切り殺されるに違いないし、南北に逃げてみても、悪獣、毒蛇の餌食になるばかりだ。といって、このままじっとしているのは、空しく死を待つだけだ。もはや私には生きのびる道は断たれているのか。」
言い知れぬ恐怖と焦燥に駆り立てられながら、必死に思案をめぐらすが、元より逃げ場はどこにも見当たらない。死の時は容赦なく迫ってくる。一刻の猶予も許されない、絶体絶命の窮地に立たしめられて、旅人は不安におののきながら決断する。
「我、今、帰らばまた死せん。止まればまた死せん、行かばまた死せん。一種として死を免れずんば、我、むしろこの道を尋ねて前に向かって行かん。すでにこの道あり。必ずまさに渡るべし。」
逃げても死、じっと手をこまねいていても死、進んでも死。どの道も死を免れぬのならば、むしろ進もう。前向きの死を選ぼう。そこには、かすかながらも道がある。私の目には渡れそうには見えないけれども、もしかしたら、いやきっと渡れるだろう。この道に自分のすべてをゆだねてみよう。こう思いつめて旅人は道に向かうのだった。
その時、突如として東の岸から、この道を勧める人の声が、さわやかに聞こえてきた。
「君、ただ決定して、この道を尋ねて行け。必ず死の難なけん。もし止まらば即ち死せん。」
この道は死への道ではなく、死を超えてゆく永遠の生命への道だ、安心して行け、と言われるのである。
この声と重なるようにして、水火二河の彼方から、この人を招き喚ぶ声が響いてきた。
「汝、一心正念にして、直ちに来たれ。我能く汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ。」
旅人はこちらから、「往け」と勧める声と、彼方から、「来たれ」と喚ぶ声に喚び覚まされて、ためらい疑う心を破られ、身も心も仰せにまかせて白道上の人となってゆく。
外から眺めていた時は、あるかなきかの細々とした道でしかなかった白道が、御声に包まれて歩み出してみると、火にも焼かれず水にも溺れぬ、揺るぎなき大道であることを知る。白道を行く旅人には、もう、おびえもたじろぎもない。
一歩二歩と力強く歩き始めた旅人の背後から、東岸まで迫ってきた群賊が口々に呼び返す。
「君、帰りたまえ。」
「この道は険悪だから、必ず堕落して死ぬに違いない。」
「我々は決して悪心のあるものではないから心配せずに帰りたまえ。」
しかし、旅人は、最早その誘いに耳をかさず、何のためらいもなく、ただ一心に道を念じて白道を歩み続けるのであった。火炎は燃え続けているし、濁流は渦を巻いて身辺に迫り続けるが、西岸上の人に護念されている旅人を、その火も、その水もそこなうことはできない。
こうして水火を顧みず、群賊の誘いにもたじろがず、百歩の白道を行き尽くした旅人は、群賊の刀も届かず、悪獣の牙も及ばない西の彼岸に到り着き、よき人々とめぐりあって、永遠の安らぎを得たというのです。
* * *
これが、善導大師が『観経疏』の「散善義」に述べられた『二河白道』の譬のあらましである。
大師は自らこの譬の意味するところを詳しく説明されているが、それについては追々に述べていくとして、差し当たりこれだけはあらかじめ知っておく方がいいだろう。
「西に向かう旅人」とは、私どもの一人ひとりを。
「無人の荒野」とは孤独な人生を。
「群賊悪獣」とは煩悩に荒れ狂う、この肉体とその心を例えているのである。ただし、群賊には念仏を妨げる邪な人々を表す場合もある。
「水の河」とは貪愛の心を。
「火の河」とは瞋憎の心を。
「白道」とは清らかな信心と、仏の本願力を二重に例えるが、要するに南無阿弥陀仏のことである。
「東岸にあって旅人に白道を勧める声」は釈尊の説教を。
「西岸浄から招喚する声」は阿弥陀仏の本願を例えたので、西岸とはいうまでもなく極楽浄土を表している。
限りある肉体に、限りなき欲望をたぎらせながら生きる矛盾の塊のような人間、愛欲に溺れ、憎悪に狂いがちの愚かな心に振り回されて、生き迷い、死におびえ続ける孤独な人間。それが今、釈尊の説教に喚び覚まされて、南無阿弥陀仏という本願の白道を信知し、その念仏の声の中に、愛憎の彼方から大悲を込めて我を招喚したまう阿弥陀仏の久遠の願いを感受しながら、浄土への旅としての人生を生き抜いていく念仏者の相を、鮮やかに例えられたものである。
さて、西岸上の招喚が第十八願の意を表しているとすれば、次のように願文と対応しているに違いない。
「汝」は十方衆生。
「一心」は至心信楽欲生我国。
「正念直来」は乃至十念。
「我能護汝等」は若不生者不取正覚。
まず本願に「十方衆生」といわれたのを「汝」の一語で表わされたところに願心の正確無比な領解があるといわねばならない。あらゆる時間と空間をつつんで、三世十方に生きとし生けるすべてのものを救おうと誓われた言葉は、大悲の超越的普遍性を表わしている。
しかし、一切衆生を救うということは、雑魚を網ですくうようなことではない。かけがえのない命を生きている一人ひとりに、如来は自らの全体をかけ精魂こめて救いたもうのである。大海の水に月の全体が宿っているように、どんな小さな枯れ草の葉末の露の玉にも、月はその全体を宿してきらきらと輝いている。ちょうどそのように、一人ひとりに如来はその全存在を与えて救いたもうている。それ故に十方の衆生が一人も洩れなく救われていくのである。
親鸞聖人がつねに、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんと思し召したちける本願のかたじけなさよ。」
と御述懐されていたというのも、私一人に向かって、「汝」と喚びたもうている本願招喚の勅命に感動されたからに違いない。
『涅槃経』に、父を殺し、母を監禁して国を奪い取った極悪非道の阿闍世王を、釈尊が月愛三昧という大悲の禅定に入って、彼を救うていかれる有名な物語が述べられている。
その中に、釈尊が、「我れは阿闍世のために涅槃に入らず」とつぶやかれたのを聞いた迦葉菩薩が、「如来は無量の衆生のためにこそ世に住したもうているはずなのに、何故、一人阿闍世のためにと仰せられるのか」と尋ねる。それに対して釈尊は、「阿闍世のためにというのは同じ罪障に泣く、一切の凡夫のためにということなのだ」といわれたとある。
即ち、阿闍世一人が救われることは、一切の苦悩の衆生に救いの道が開かれることであり、また逆に、一切の衆生が救われるという教説は、極重の罪障をかかえた私一人が必ず救われることを保証している。まことに一切衆生の救いは、一人の救いに凝集し、一人の身の救いは、一切衆生の救いを証している、といういわれもうなずけるのである。
さて、阿闍世が初めて仏前に伺候した時、釈尊ははるかに彼を見そなわして、
「大王よ」
と呼びかけられた。しかし、罪深き我が身は大王と呼ばれる資格がないと思い込んでいた彼は、それが自分のことだと思えず、いたずらに左右を見回していた。その時仏は再び、
「阿闍世大王よ」
と、呼びたもうた。優れた聖弟子を呼びたもう如く、我が身が呼ばれていることに気づいた時、如来の大悲心は、賢善の人も愚悪の凡夫も分け隔てなくつつんで救わんと願いたもうていることに目覚めたのであった。
「世尊よ、私ごときものを、御心にかけたもうて呼びかけてくださった、今のその一言によって、私は如来のお救いを疑う心がなくなりました。そして如来こそ、一切衆生の無上の大師であることをはっきりと知りました。」
と領解を述べている。
一切の衆生を平等に救おうと思し召す大悲の心は、具体的には一人ひとりに向かって、
「我れ能く汝を護らん。」
と、「我れ」と「汝」の対応をもって呼びかけることによって成就していくのである。「汝」と第二人称単数で呼びかける如来の招喚に対する対応は「親鸞一人」といわれたように、第一人称単数でなければならない。『大智度論』にも「仏は一人我がために法を説きたまふ。余人のためにあらず」といわれている。まことに一人自らの業縁を果たしていかねばならない孤独の旅人である私は、一人如来の前に立ち、「汝」と呼びかけたもう大悲につつまれる時、初めて、深い安らぎを覚えるのである。
本願を聞くということは、本願を外から聞くのではなく、本願の中にあって聞くのでなければならない。言い換えれば、本願の中にあって、如来に願われている自分に気づかしめられることが本願を聞くということなのである。
「汝一心正念にして直ちに来たれ。我れ能く汝を護らん。」
と、二度まで呼ばれている「汝」が私であると信知することだ。その時の私のあり場は、本願の中であって、大悲に護念されていることが領解される。それが信心なのである。
私どもが迷うているということは、一つには私が本来何者であるのか、どこから来て、どこへ行こうとしているか、分からないことである。つまり、自分のありかに迷っているのだが、それは自分を単に私の私であるとのみ知って、私が如来の「汝」であることに気づかないからである。「我れ能く汝を護らん」といわれる「汝」は、如来の本願海の真っ只中に生きさせていただいており、この命は仏子と呼ばれるように、私のものではなくて、如来に帰属するものである。
ところで、また、「十方衆生」の一人として如来の護念に気づくことは、また同じ如来の護念を受け、大悲されつつある無数の同朋のあることに目覚めることでもある。
「我らはみなともに如来の子であり、命あるすべてのものは同朋であり、同行である。」
という内感が恵まれてくる。
親となり子となり、妻となり夫となり、時には友となり敵となりあいながら、お互いがのっぴきならない愛と憎しみの縁に繋れて生きているこの人生は、まるで無限に錯綜する二人三脚を組んで走っているようなものである。そこでは親だけが救われても、子が救われなかったら親にも身の救いはあり得ないし、子が救われても、親に救いがなかったら、子もまた落ち着けるはずがない。業縁に繋れるものは、ただもろともに救われていく世界が開かれてこそ、個々の救いも真に成就するのだ。そこに「十方衆生」という普遍の救いを誓われる願文の尊さがある。
「十方衆生」
と、一人ひとりに呼びかけられる広大な願いに触れる時、「私が願われ支えられているように、あなたも彼も、みんな、同じ仏に念じられている兄弟だ」と、気づかせていただき、 「十方の有縁の同朋とともに」という広く豊かな法縁に繋る世界が開けていくのである。
「一即一切、一切即一」という縁起の道理は、「十方衆生即汝、汝即十方衆生」という構造をもった本願の喚び声の上に表われており、その本願に呼び覚まされて、お互いが同朋であり同行であるという信念をもって、手を取り合っていく念仏者の生き方こそ、縁起の道理にかなった真理なるありようであるといわねばならない。
そして、「我国に生れんとおもえ」と、願われている身ならば、浄土を我が故郷と呼ばせていただけるではないか。まことに「汝」の一言は、私をして願力の白道を行く念仏者たらしめ、浄土を一定と期する「必定の菩薩」、まさしく成仏することに決定している、「正定聚」「妙好人」「真仏弟子」とならしめるのである。