１１７３（承安３）年４月１日（新暦５月２１日）、宇治に程近い日野の地に親鸞聖人は誕生されました。幼名を「松若丸」と呼ばれていたと伝えられています。
父は日野有範。身分の低い公家でしたが、後に隠棲して三室戸に住まいしたことから、三室戸大進入道と呼ばれる出家者であるといわれています。母については、源氏の流れをくむ吉光女。確かなことは何も分かっていませんが、聖人８歳の時に死別されたとも伝えられています。
また、尋有、兼有の弟があって、晩年、帰京後の聖人が身を寄せられたといいます。その頃父有範が亡くなり、その喪に服している時に追慕して３人そろって訓点を記したといわれる『仏説無量寿経』が本願寺に伝わっています。
聖人ご誕生の頃、都では平治の乱で政権を握った平氏一門が栄華を極めていました。しかし、その平氏も、その後わずか１２年後には滅び、代わって源氏一門が武家政治への道を開き始めることになるのです。
その間には源平の戦いや、比叡山、奈良の僧兵たちの争いのために、東大寺、興福寺をはじめ諸大寺が焼き払われてしまうという事件が相次いで起こります。それは、それまで人々に尊ばれてきていたものがその権威を失い、人々のものの考え方が根底から覆されていくような、動乱の時代を表わすできごとでもありました。
その上、聖人４歳の春と７歳の秋には大地震が、５歳の春には都の３分の１を焼失するほどの大火などと続き、さらに１１８１（養和元）年には前例のない大飢饉や疫病などのために死者が都にあふれ、それは翌年まで続いて都大路は廃墟の街になったということです。
誰も彼もが、悲しみや苦しみに耐えながら、その日その日を生き抜くことに精一杯でした。ただそれだけに、その時代社会の姿そのものが人々の不安を一層深いものにして、人間として生きることの意味を問いかけていたともいえましょう。
聖人はそのような時代に人として生を受けられたのでした。

１１８１（養和元）年、親鸞聖人は出家得度されます。
その出家の動機については、聖人のご一家に不幸な事情があったからとか、貴族の弟子の多くが出家させられた当時の風習によるとかといわれています。例えば、１１８０（治承４）年、日野家と係わりの深い源頼政と以仁王が打倒平家を掲げて戦を仕掛けたものの、宇治川の合戦で敗戦。そのために日野家はいよいよ悲境に追い込まれたといいます。
いずれにしろ、聖人自身の選びに先立って、聖人を促す事情があったのであり、聖人はそれを仏縁として出家への道を踏み出されたのです。
苦しみ、悲しみに打ちひしがれながら、しかも、それを訴える言葉も場所も持たない人々の姿を幼い眼に焼きつけてこられた聖人にとって、出家の道は人間として生きる意味を尋ねていく唯一の道であったのです。
そうして聖人は伯父の範綱につれられて東山青蓮院の門をくぐり、慈円僧正の坊舎で得度式を受けられ、範宴と名のられました。
この得度式に臨んで、
「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
という和歌を示して、日を改めてという人たちに対して式を急がれたと伝えられるのも、そうした無常の世を噛み締められたからこそでありましょう。
聖人９歳、春のことでありました。

９歳から２９歳までの、人生において最も多感な時代を親鸞聖人は比叡の山に過ごされました。
伝教大師によって開かれた比叡山は、大乗菩薩道の根本道場としてその使命を自負し、権威を誇っていました。そして、日本における仏教の最高学府として、東塔、西塔、横川にたくさんな僧院を持ち、数多くの僧侶が集まっていたのでした。
しかし、聖人が学ばれた頃には、その山もすでに奈良の諸宗などと同じように、現世の祈祷や、現実の生活とは無関係な学問の場になり果てていました。しかも、ことあるごとに寺院に加持祈祷を求めることができたのは、常に社会の上層を占める人々で、そのために寺院はしだいに貴族社会と結びつき、その寄進を受けて広大な荘園を支配する領主となっていったのでした。その上、僧兵と呼ばれる武力すら持つようになり、時代の乱れをいよいよ甚だしいものにしたのです。
権力と結びつくことでしだいに世俗にまみれていった寺院は、さらにその内部にも身分的な対立を生み出し、争いのやむことのない有り様でした。もちろん、寺院の堕落騒乱をよそに、ひたすら修学に励む僧たちもいなかったわけではありません。しかし、その人たちも、多くはただ自らの学問の世界に閉じ籠もる人たちでなのでした。
そうした僧侶集団の身分は学生と堂僧と堂衆に分かれていました。
学生というのは貴族や殿上人の出身者で、小僧都から僧都へ、そして未来の天台座主へと華々しい栄達の道を進む。それこそ「選ばれた人々」です。それに対して、堂衆は学生が連れてきた従者が法師になったものです。道を求める心もあまりなく、堕落する者もあって、「叡山の荒法師」といわれ、一般の人々から恐れられていたのはこの一群でした。
そして堂僧というのは、山内の諸堂に奉仕する役僧や、常行堂で不断念仏の行を励む念仏僧を総称したものであります。
その頃の聖人については、受戒して僧となり、後に堂僧を勤めていたことが知られているだけで、詳しいことは分かりません。ただ、日野家が藤原氏の別れであり、父有範が「正五位の下」という、あまり高くない身分であっても、貴族や殿上人の内には違いないので、聖人も当然学生になれたはずです。にもかかわらず、聖人が堂僧の道を進まれたというところにも、聖人の仏道修行への思いが如何に一途なものであったかを知ることができます。
聖人を慕う人々の間には、１１９１（建久２）年、１９歳の秋、聖人は磯長の聖徳太子廟に籠もられ、そこで夢告を受けられたということが言い伝えられています。その夢告の中の、
「日域は大乗相応の地」
「汝の命根まさに十余歳なるべし」
「善心善信真菩薩」
という言葉は、その頃聖人がどのような問いを持って生きておられたかを示しているものです。すなわち、賜った命の限界を見据えながら、聖人はどこに生死の迷いを離れる道が開かれるかという苦悶を、夢告を受けるほどまでに突きつめておられたのであろうということです。山での２０年間は、いよいよ深まってくるその問いを抱えての修学の日々であったのでした。
一方、『恵信尼文書』や『伝絵』を合わせて考えてみますと、比叡山を降りられるまでの聖人は横川の首楞厳院で、堂僧として不断念仏や一心不乱の称名の行に励まれていたことが分かっています。
不断念仏というのは、仏の救いにあずかるために道場に籠もって、身は常に阿弥陀仏像の周りを巡り、口には常に阿弥陀仏のみ名を称え、心は常に阿弥陀仏を念じ続けることによって、阿弥陀仏と行者とが一つに融け合う、三昧の境地に至ることができるというものです。
そして称名念仏というのは、『阿弥陀経』や源信僧都の『往生要集』に説かれる念仏で、仏のみ名を称えて一心に救いを念じておれば、仏は必ずその願いに応えて救ってくださるというものでありました。しかし、聖人の心には苦悩の闇が深まるばかりでした。
黒々と巨大に聳える山の葉に天を切るような上弦の月が光っていても、この悩みを解決してくれる人も教えも、最早この比叡山にはなかったのでした。

１２０１（建仁元）年、２９歳の時聖人は聖徳太子の建立と伝えられる六角堂に１００日参籠を続けられます。
この頃、聖徳太子の名に祈りを込める人々が絶えませんでした。当時の社会はいよいよ荒廃を強め、人々は、その日その日を生きあぐねているのでした。しかも、頼むべき仏教界は堕落を深めています。
「何によって生きていけばよいのか…。」
その道を見出すことのできなかった人々は、仏法を敬い、世のために自分を捨てて生き切られた聖徳太子の名にすがったのです。もともと、比叡山を開いた伝教大師もまた聖徳太子に深く帰依した人でした。
そして今、解くことのできない問いを抱えて苦悩された聖人もまた、改めて聖徳太子に導きを求められたのです。聖人はただ独り、六角堂のご本尊の前に身を据えられました。
「出家僧とか堂僧などとして行を積むのが仏道であるのか…。」
比叡山の姿を見るとき、そうは思えない。
「山を捨てて街に出でて、わが身に素直に生きていく中に仏道があるのか…。」
そう言い切るにはためらいがありました。そうした惑いが、教えにふさわしく生きようとすればするほど露わになってくる煩悩の身とひとつになって、聖人の心を追いつめてゆきました。そして、救いを求めて聖人は坐り続けられたのです。
参籠して９５日目の暁、夢の中に聖人は、
「行者宿報にてたとい女犯をすとも、我れ玉女の身となりて犯せられん。一生の間能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしむ。」
という救世菩薩の声を聞かれました。菩薩はさらに言葉を次いで聖人に告げられた。
「これはこれ、我が誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生に聞かしむべし。」
と。
その夢告は、生死の迷いを離れていくべき道が、願生浄土の道として、この生死の中にこそ成就していることを告げていたのです。このとき聖人は、京の街でひたすら往生浄土の道を説いておられる法然聖人のもとを訪ねる決意をなさいました。
聖徳太子を父母のように慕われた親鸞聖人が晩年に、法然聖人に出遇い、本願を信ずることができたのも太子のお蔭であると、その恩徳を讃えておられるのも、この時のことがあったからでありましょう。

救世菩薩の夢告に導かれて、聖人はその道を法然聖人に訪ねようと吉水に向かわれました。後に、聖人の妻恵信尼さまは、その時の聖人の姿を、
「後世の助からんずる縁に遇い参らせんと尋ね参らせて、法然聖人に会い参らせて…」
と書き留めておられます。
法然聖人との初めての出会いがどのようなものであったのか…。少なくとも親鸞聖人はそれから１００日の間、
「降るにも照るにも、いかなる大事な時にも参りて…」
その教えを聞かずにおれないものを法然聖人の姿や言葉に感じとられていました。そしてついに親鸞聖人が聞き取られたのは、
「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」
という一言であり、まさしく出遇われたのはその一言と共に生きておられる念仏者法然その人でありました。ここに仏法があり、仏法に生きる人がいる。その歓びを親鸞聖人は後に、
「建仁辛の酉の歴、雑行を棄てて本願に帰す」
と書き留められ、また、
「曠劫多生の間にも出離の強縁知らざりき、本師源空いまさずばこの度虚しく過ぎなまし」
と和讃されています。
こうして法然聖人の許で念仏者として歩みだされた親鸞聖人の日々でしたが、しかし、それは決して平穏無事というものではありませんでした。吉水教団に対する仏教界からの圧迫の激しさは、当時すでに前途に容易ならぬものを感じさせていましたし、そのことを思えば吉水教団に加わることは、むしろ嵐の中に船出するような厳しさがあったのです。
けれども、他に求めてついに見出すことのできなかった喜びを、今、本願念仏の一道の中に見出し得たのであり、その確信は、聖人の歩みを一層一途なものにしてゆきました。
特に１２０５（元久２）年、その念仏の旗印を高く掲げられた師法然聖人が著された『選択本願念仏集』の書写と、肖像を描くことさえ許されたことは、親鸞聖人に生涯にない深い感動と使命感を呼び起こしましたし、さらに同年閏７月２９日、名前を善信と改め、法然聖人自らその名を書き送ってもらったことも大いなる歓びとなりました。

親鸞聖人は吉水の教団に、同じ人間としての歓びを持って、共に生きていくことのできる念仏者の僧伽を見出しておられました。それは本願念仏の他には最早どのような世間的権威をも必要としない、仏法の僧伽です。その僧伽はあらゆる階層の人々の道心を呼び起こしてゆき、これまで仏法とは無縁なものとされていた一般の庶民をはじめ、僧や貴族、武士などが吉水の法然聖人のもとに集い、共に一つの念仏に和していったのです。
親鸞聖人はさらに教えの奥義を窮めようとたゆまぬ努力を続け、門弟の中で、次第に頭角を表わすようになりました。その頃書き写されたものと思われる『観無量寿経集註』『阿弥陀経集註』は、本文を行間や上下の空白に、関係のある色々な仏典から参考になる言葉を引いて、ぎっしり書き入れてあります。如何に熱意を燃やして勉学にいそしまれたかが偲ばれます。
また、『歎異抄』や『伝絵』に、信心についての諍論などの様子が載せてあります。
「法然聖人の信心と善信の信心と同じであって、少しも変わりはありません。自力の信心ならば智慧の違いや念仏の経験の長短で、信心も違ってきましょう。しかし、他力の信心は如来より賜った信心ですから、みな同じであります。」
と親鸞聖人が言い出されたので、お弟子たちの間で論争が始まりました。また、『絵伝』にある信行両座の論争も最後には法然聖人のご採決を仰ぎ、聖人が親鸞聖人主張に賛成されたことで決着していますが、この師弟が如何に深く信仰理解で結び合っていたかを物語るものです。

もちろん、吉水に集う人々の中にも念仏の教えではなく、法然聖人の人格にすがっていたに過ぎない人々もありました。また、
「念仏の救いにはどのようなことも障りにはならない」
と、平気で悪時を行い、吉水教団に対する無用の批難を引き起こす者もいました。
１２０４（元久元）年冬、延暦寺の僧たちは重ねて念仏の禁止を座主真性に訴えました。そのため、同年１１月、法然聖人は『七ヶ条の制誡』を作って門弟を厳しく戒め、それを守る誓いの署名を求められたのです。このとき親鸞聖人は「僧綽空」の名をもって署名に加わっておられます。
しかし、翌１２０５（元久２）年１０月、奈良興福寺は、法然聖人並びに弟子等の罪を数え上げて処罰するよう朝廷に強く迫ってきました。
そして翌１２０６（建永元）年１２月、院の御所の女房たちが法然聖人門下の住蓮房、安楽房等の念仏会に加わったことが後鳥羽上皇の怒りを呼び、これが直接の動機となって『興福寺の奏請』がにわかに取上げられたのです。そして、１２０７（承元元）２月、住蓮房等４人が死罪に、また法然聖人をはじめ８人が流罪に処せられました。このとき、法然聖人は藤井元彦の罪名のもとに土佐の国へ、親鸞聖人は藤井善信の罪名で越後の国へ流罪となったのです。
親鸞聖人は還俗させられた。それは、この時代、どんな理由があっても、何人も出家を罰することはできなかったのです。そこで一旦還俗させて俗名をつけてから刑を執行したのです。これがために、その後、師弟はついに再び相会うということはありませんでした。
しかし、このような批難や圧迫は、これまで仏教の名を掲げてきた聖道の諸教団が、自ら、
「すでに行証が久しく廃れている姿」
を暴露する結果となりました。
事実、この権力による吉水教団への弾圧も、法然聖人が人々の道心の内にうち立てられた仏法の灯を打ち消すことはできなかったのです。それどころか、本願念仏の法のみが、苦難の世を生き抜いていく力を人々に開く真の仏道であることを広く証しすることとなったのでした。

１２０７（承元元）年春、親鸞聖人は、みだりに専修念仏の教えを禁じた者への、抑えることのできない怒りを胸に流罪の地、越後国府に赴かれました。聖人３５歳のことでした。
そこで出会われたものは、辺地の荒涼とした自然であり、富や権力などとは全く無縁に、人間としての命を赤裸々に生きている人々の姿でした。そこには、善根を積むことはおろか、生き延びるためには、たとえ悪事とされていることでも敢えて行わなければならない、深い悲しさを抱えた人々の生活がありました。
そして、その生活の中で聖人は、
「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」
と仰せられた法然聖人の一言がいよいよ確かなものとなって心に響き渡るのを感じていかれました。今日一日を生きることに精一杯なこの人々こそ、本願を信じ念仏申すほかない人々であるという切実な思いが深まるとともに、その念仏をどのようにしてこの人々の生活の上に開いていけばよいかという問いが重く担われていったのです。
そうして、その歩みの中から、聖人は自ら「愚禿釋親鸞」という名のりをあげられたのです。
親鸞聖人は法難を受けられた時、かえって強められた念仏者としての気負いがありました。しかし、越後での生活はそのような聖人の気負いをも打ち砕くほどの厳しさでした。８００年も昔、越後の国は淋しい田舎でありました。低く垂れ込める黒雲と北海に狂う荒波は、そうでなくてもわびしい流刑の身の旅愁をそそらずにはいませんでした。肌をつく寒風の中に光る配所の月は、人生を甘く美しく装っていたものをみな打消し、ごまかすことのできない人生の実相を赤裸々に照らし出しているのでした。
後に語られた、
「さるべき強縁の催さば、いかなる振る舞いをもすべし」
という聖人のお言葉からは、わが身の煩悩の底知れない深さを思い知らされていかれた越後時代の生活が窺えます。
その後、さらに関東に移られて後、聖人は、かつて法然聖人が語られていた「愚痴の法然房」という言葉を、いよいよ身に沁みる思いをもって聞き取ってゆかれました。そして「非僧非俗」の境地を自覚し、いよいよ「愚禿」と名のられたのでした。
この当時、律令制度のもとでは、僧は寺院にあって専ら戒律をたもち、学行に励みながら国家の安泰と興隆を祈念していましたから、自由に民衆に接して仏法を説くことなどは極めて希なことでした。だから、聖人が「僧に非らず」と言われたのは、そういう国家権力による僧ではなくなったことを表わし、「俗に非らず」とは、律令僧の形は取らないけれども、内には深く如来を信じ、外にはその喜びを、何はばかることなく伝えてゆける僧になられたということの表明であったのです。
そして、「愚禿」と名のられたことも、不当な弾圧を加えた権力に向かって表明されただけのものではなく、自己に向けられた厳しい内省の言葉でもありました。「愚禿」ということは、外見は僧の姿であっても、その心と行いは醜い浅ましい凡夫であるということであります。そういう感慨は、人間の良心的な反省といったような底の浅いものではなく、如来の慈悲の光に照らし出されて、わが身の愚かさ、至らなさが知られると共に、しかも、そのままが如来の慈悲に摂め取られているという、慚愧と感謝の思いが表明されているのです。

その越後にあって、親鸞聖人はご結婚されて幾人かの子をもうけられました。文字通り肉食妻帯の一生活者となって生きてゆかれたのです。
親鸞聖人の結婚についてはまだ不明な点も残っています。
はじめ、親鸞聖人の妻は関白九条兼実の息女、玉日姫であるといわれていました。おそらく、この玉日説が生まれた背景には、六角堂の救世菩薩の夢告の言葉に、
「仏道の修行者であるそなたが前世の報いで妻帯するようになれば、私が玉女となって一生を仕えて人生を整え、命終わる時には浄土へ迎えよう。」
とあるところから、「玉女」すなわち「玉日姫」として伝えられたと考えられます。しかし、それに該当する女性は、関白九条家の系図にも兼実の日記『玉葉』にも見当たらない、外部資料にもないというのが史家の研究によって明らかとなっています。
そして、恵信尼さまの手紙が発見されることによって、越後の地でご結婚して、家庭をもたれたであろうということが明らかになりました。それが兵部大輔三善為教の息女、恵信尼さまです。親鸞聖人より９つ年下の寅年生まれであると言っておられることや、親鸞聖人が３９歳、恵信尼さまが３０歳の３月３日に信連房が生まれていることからして、流罪ほどなくして結婚されたことが知られます。
恵信尼さまの生家、三善家は、南北朝時代から室町時代の３４０年にわたって越後に名をとどめています。父為教という人は、九条家が越後に持っている荘園を預かっていたこともあるらしく、そうすると恵信尼さまは京都のお生まれか、あるいは九条家に仕えて都暮らしをしておられたと考えられるのです。恵信尼さまが５０年以上も日記をつけておられたことがわかっていますが、気品と教養を兼ね備えた方であることや、聖人との家庭生活が深い尊敬と信頼に満ちたものであったことなどは、そのお手紙から充分に窺い知ることができます。
そのお手紙は、親鸞聖人が亡くなられた後、恵信尼さまが８２歳から８７歳までの間に、末娘の覚信尼さまに宛てて書かれたもので、聖人の信仰上の苦悩、法然聖人との出会いの様子、そして日頃の言行などが手に取るようにしたためてあります。我が子に求道者としての父の姿を伝えると共に、その父の求めたものを忘れないようにと願う、念仏者としての母の態度が示されてあるのでした。
そのお手紙に、ご一家が常陸の下妻という所におられる時、法然聖人が勢至菩薩の化身であり、親鸞聖人が観音菩薩の化身であると、夢の中で知られたことを書かれたものがあります。その手紙の終わりの部分で、恵信尼さまは、
「殿が観音の化身であるという夢のことはお話ししませんでしたけれども、それ以来、心の中では普通の人とは思わずにお仕えしておりました。あなたもこのようにお心得ください。」
としたためておられます。聖人の人柄が偲ばれると共に、恵信尼さまがまた、如何に敬愛の人であったかが窺われます。

越後に流されてから５年、１２１１（建暦元）年１１月１７日、親鸞聖人は法然聖人と共に赦免となります。
しかし、聖人は京都へは戻られませんでした。それは恩師法然聖人が、そのわずか２ヵ月後にお亡くなりになったからだと考えられています。
そして、１２１４（建保２）年、４２歳の時、親鸞聖人は常陸に移られたのでした。それから約２０年の間、親鸞聖人は、本願念仏の教えを縁ある人々に伝えることを自らの使命として、関東の地に生きられたのです。そして、聖人の教化は常陸、下総、下野の３国を中心に、広く関東から東北にまで及び、その歩みの中から各地に念仏者の僧伽が生まれていったのでした。
あるとき、１２１４（建保２）年、家族と共に越後から関東に向かわれる途中、上野佐貫の地で、親鸞聖人は『浄土三部経』を千部読誦することを思い立たれたといいます。
その頃、関東一円には飢饉が広がり、人々は地を這うようにしてその日その日の命を繋いでいました。そして、力尽きた人々が次々と倒れていく。その姿から眼をそむけることのできなかった親鸞聖人は、ただひたすらに経典を読誦して、世の中の平安を祈らずにはおられなかったのでありましょう。けれども、どれほどいとおしみ不憫に思っても、その思いのままにすべての人々を助けることはできない…。この事実が、改めて聖人の心を重く捉え、三部経読誦の行を棄てられるにいたったのです。
あるいは、それから１７年ほど過ぎた１２２１（寛喜３）年、親鸞聖人は４月１４日から４、５日あまり、風邪をひいて高熱を出し、夢うつつの中で『大無量寿経』を読もうとして思いとどまられたことがありました。
「念仏のほかに何の不足があってお経を千部読もうとしたのであろうか。自ら信じ、人をしえて信じさせることこそ、まことに如来のご恩に報い、その徳に感謝することであると思い直してやめたはずの教典読誦であったのに、自力の執われ心がどれほど抜けにくいものであるか、よくよく注意しなければならない。」
と、正しい信心のあり方を省みて、厳しくご自身を戒めておられます。
しかし、これらの体験は、聖人に、いよいよ本願念仏の一道を生き通すことを決定させ、そうして、その後の聖人は、ひたすらに本願の名号に徹してゆかれたのでした。
越後、関東での生活を通して、親鸞聖人は、生き延びるためには他を省みている余裕すら持てない人々の中に、人間の赤裸々な事実を見出されたのです。そして、この荒々しく生きる人々こそ、念仏して自らの罪悪に目覚めるとき、大悲の本願を生きるものとなることを確信されたのです。悪人こそまさに本願が救おうと誓った人々であったということは、その確信のうちに新しく開けてきた世界でありました。そして、この他力をたのむ悪人を、愚禿と名のられた親鸞聖人は、
「御同朋、御同行」
と敬ってゆかれたのです。
わが身に誇りも自信も持ち得なかった人々は、親鸞聖人の教えに遇い得て、もはや善も必要とせず、さらには悪をも恐れることのない、生き生きとした日々を生きる道を知ったのでした。それは、我々こそ人間なのだという自覚として息づいていきました。
しかし、それだけに、一部にはどんな悪事を犯しても救われるという教えに歓喜するあまり、非行に走るものも現われました。このことは、はしばしば念仏を誤解させ、領家、地頭などの土地の支配者による念仏弾圧への口実を与えることにもなってしまいました。そのため、聖人は念仏に生きる者の姿を繰り返し繰り返し諭してゆかれます。

これまでの仏教をはじめとする多くの教団は、神々を怖れ鬼神に怯え、日の良し悪しを気にする人々の弱い心につけこんで、加持祈祷、呪術に明け暮れていました。それは人々から現実を直視する眼を奪い、生活を暗くさせ、果てしのない闇に引き込んでいったのでした。
しかし、親鸞聖人はそのような人々に、「念仏が無碍の一同である」ことを説き続け、禍福に惑い怯えることから人々を解放し、仏教の明るい智慧の世界へと呼び醒ましてゆかれたのでした。それは呪術や祈祷に明け暮れる、我々日本人の精神生活を根底から揺り動かす出来事であったといえましょう。
ある時、山伏として祈祷をすすめる弁円が、
「鬼神や魔神を拝まず、祈祷や呪いを行わないように」
と説かれる親鸞聖人を怨み、板敷山で待ち伏せて、何度も聖人を殺害しようとしましたが、果たせませんでした。そこで、思いあまって稲田の草庵に押しかけたのですが、聖人の大空のような広い心に触れるとたちまちに害心が消え失せ、その場で弟子になって「明法房」という名をいただいたということがありました。後年、明法房が亡くなった時、
「明法房も、もとは不思議のよからぬことを考えたりしたのであるが、後にその心をひるがえして、このたびはめでたく往生をとげました。」
と、関東の門弟にご返事を書き送っておられます。
親鸞聖人は下妻や稲田などに住んで伝道に励まれました。ある時は道端のお堂であったかもしれません。またある時は民家の炉辺であったことでしょう。膝を交えて、とつとつと真実の法を語り、また相手の言葉に耳を傾けてゆかれたことでしょう。そうして聞く人、聞く人に心の底に諄々と如来の大悲が沁み込んでいったことでしょう。真に心の触れ合う教化でありました。
村人から悪四郎と嫌われていた乱暴者も弟子となり、持ち前の才知と手腕を発揮した長老の性信房、財政的な面から聖人の教化を支えた真仏房、そして後に『歎異抄』を著わされた唯円房などなど、聖人の関東教化によって生み出された念仏者は、やがて有力な門弟を中心に各地に新しい師弟関係を持った念仏者の集団を生んでいきました。
聖人の直弟子は４４人、孫弟子の中で直接お会いして教えを受けた者や、お手紙や他の書面に名前が出ている者を合わせれば７０人前後の門弟があったことになります。この門弟がまたそれぞれの在所で教えを広めて、性信房を中心とする横曽根門徒、順信房を中心とする鹿島門徒、真仏房を中心とする高田門徒というような集団を作り、念仏の同行は１０万人を超えたとも言われています。
しかし、それはまた、ともすればその師弟関係にとらわれて「御同朋、御同行」としての僧伽を濁らせ、派閥的な争いを引き起こすことにもなりました。それだけに、聖人は常に人の師となることへの厳しい自省の眼を持ち続け、「名利に人師を好む」と悲嘆され、「弟子一人も持たず」と諭してゆかれたのです。
聖人の教化は、ひとえに仏徳讚嘆であり、命を尽くしての仏恩報謝の歩みであったのでした。

朝廷や鎌倉幕府による、さらなる専修念仏の禁止は、その後もしばしば繰り返されていました。
その中を、６０歳を越えた頃、親鸞聖人は関東を後にして京都に帰られます。しかし、その都での生活も決して安穏なものではなく、住まいも五条西洞院や三条富小路など、縁を求めて転々とされていました。
なぜ関東の御同朋と分かれて一人京都に帰られたのか、その理由も聖人は何も語ってはおられません。
ただ、聖人は京都に帰られてから、関東において既に書き進められていた『顕浄土真実教行証文類』全六巻を完成され、さらにその後の生活を、専ら著述にささげられたという事実があります。
『顕浄土真実教行証文類』は、専修念仏に対する聖道諸教団からの批判や、国家からの弾圧を受け止め、本願念仏こそ真実の道であることを明らかにされたものに他なりません。それは時代を隔て、民族を超えた念仏者の歴史を七高僧の伝統として掘り起こし、どのような人も共に等しく、人間としての尊厳を自己の中に見出して生きていくことができる道を開かれた、『人類の根本聖典』ともいうべきものです。そしてさらに、聖人はその『顕浄土真実教行証文類』によって明らかにされた広大無碍の世界を、『和讃』をもって詠われ、お手紙をもって語り尽くしてゆかれました。
それは、文字もあまり分からぬ人々のために書き著された和文のお書物でありました。７６歳の時には『浄土和讃』や『高僧和讃』を作られ、８３歳の時には『尊号真像銘文』という書物を記されました。そして、８５歳になってもなお『一念多年文意』や『正像末和讃』など、数多くを執筆しておられます。
そこには当時の人々を縁として、遠く未来世の人々にまでも真実の道を伝えていこうとする、親鸞聖人の強い願いが脈うっているようにも思われます。

聖人が京都に帰られて後、晩年に及んで、権力者による弾圧や日蓮上人の念仏批判などが相次ぎ、そのために関東の御同行の間に信仰上の動揺が起こってまいります。
関東からは、多くの方々が代わる代わる面会を求めて、あるいは手紙を携えて来られました。聖人は、その人々に対して温かく、そして時には厳しく応対され、はたまた、ご返事をもって惑いを正されました。現在伝わる４３通のお手紙は、その一部です。
そして同時に、息男善鸞さまを関東に派遣して人々の力添えとされたのでした。
しかし、使命を担った善鸞さまは関東教団を統一しようとして、却って有力な門弟と対立するようなことになってしまいました。そのため、善鸞さまは聖人の子という立場を強く押し出し、あるいは権力者たちと妥協し、または、それを利用しようとさえしました。
そうした善鸞さまの行動と、そのために起こった関東教団の混乱をお知りになった聖人は、念仏の僧伽が崩れていくことを悲しみ、敢えて善鸞さまを義絶されたのでした。
しかし、義絶によって、親であるという事実まで消そうとされたのでありません。却って、義絶しなければならない子を持った親として、善鸞さまの犯さねばならなかった罪と、その罪の大きさを、重く深く荷負われてゆかれたのでした。
この善鸞事件などに見られる幾多の異議や、鎌倉幕府の弾圧などによって動揺を続けていた関東の御同朋たちは、聖人のお言葉を力として、いよいよ本願念仏の道を受け継いでゆきました。

親鸞聖人の最晩年、８４歳の時、善鸞さまを義絶するという悲しい事件がおきたのですが、この頃、少なくとも１２５４（建長６）年には、奥さまの恵信尼さまは、聖人の身の回りのお世話を末娘の覚信尼さまに託されて、生まれ故郷の越後米増に帰っておられたようです。これは、三善家から相続した土地や財産の管理をしながら、子どもや親に先立たれた孫たちの生活の面倒をみるためであったといわれています。
しかし、恵信尼さまのお手紙でしばしば知られるように、越後での恵信尼さまの生活は、多くの家族と７、８人の傭人を抱え、しかも凶作によって作物を損じたり災害で土地を失うなど、物が不足したりして、老いの身には重すぎるほどのめまぐるしい労苦の日々であったようです。そしてまた、如何なる事情であったにせよ、敬愛してやまない聖人と遥に隔てて暮らさなければならなかった、つらく淋しい心情は察するに余りあるものがあります。そして、年老いた恵信尼さまは、聖人のご臨終に立ち会うこともできず、ついに京都へ帰られる機会もありませんでした。
恵信尼さまが越後へ降られてから７、８年。その間、親鸞聖人もまた、善鸞さまの背信、それによって動揺する関東の教団への対応、そして追い討ちをかけるような鎌倉幕府の弾圧への対処と、休む間もなく起こる事件に全身全霊を傾けておられました。
そして、１２６２（弘長２）年１１月２８日（新暦１月１６日）、親鸞聖人は、その命を仏道に捧げつくした９０年の生涯を閉じられました。ご臨終は弟尋有僧都の善法院であったといわれております。枕辺には末娘の覚信尼さまをはじめ、越後から上京した益方の入道が。門弟では高田の顕智房や遠江池田の専信房などが集まっておられたと伝えられています。
翌２９日には東山の延仁寺で火葬を執り行い、３０日に鳥辺野の北の大谷に納骨して墓標が立てられました。そうして、喪主を務められた覚信尼さまは直ちに越後の恵信尼さまに、これらのことを事細かくご報告されました。
雪深い越後で悲報を手にした恵信尼さまが別離の悲しみを抑えて、
「昨年１２月１日付のお手紙は同月２０日過ぎに確かに拝見しました。何はおいても、殿がお浄土の往生遊ばされたことは間違いなく、改めて申すまでもございません。」
と書き出されるお手紙があります。これは恐らく、覚信尼さまのお手紙の中に、法然聖人のご往生の時には瑞雲がたなびくなどの奇瑞が各所にあったと伝えられておりますのに、父親鸞聖人のご往生の時には奇瑞も何もなかったということを、その思いのままにお手紙にしたためられたからでしょう。
それで、恵信尼さまがわざわざそのことに触れておられるのです。恵信尼さまは親鸞聖人８８歳の年齢の記載のあるお手紙をご覧になったことがあるのでしょうか。そこには、真実信心の人の往生は臨終の善し悪しを言わぬこと、そして平生に念仏して、愚者になりて往生する旨がしたためられてあります。
しかしこのことは、拝見なさらぬとも、聖人が常にお話しになっておられたことでもあり、そして恵信尼さまの耳の底に響いているお言葉でもあったのでしょう。ですから、覚信尼さまへのお手紙に、奇瑞があろうとなかろうと、親鸞聖人のご往生は間違いないと。
そして、このことはさらに後年、恵信尼さま８７歳の時に、
「お念仏を大切に相続して、ともにお浄土で会いましょう」
というお手紙を書いておられることに証しし、それがまた母親として孫子に懸ける大きな願いでもあったことでしょう。
このお手紙を最後に、恵信尼さまもまたお浄土へ帰ってゆかれたのでした。

本願念仏に生きられた親鸞聖人の命は、如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今日なおも生き続け、無数の念仏者を生み出し続けています。
親鸞聖人が亡くなられてからというもの、関東や京都の人々が聖人の遺徳を慕って、墓所に歩みを運ばれました。参詣する人は年毎に増えてゆきました。それで、そうした方々へいろいろ便宜を図り、高田の顕智房やご門徒の協力を得て墓所を改め、六角のお堂を建てて聖人の影像を安置するなどして、外形が整えられました。
また、覚信尼さまとその子孫が留守職としてお堂をお守りすることとし、敷地や建物は門弟たちの共有とするなど、みんなの力で廟所の維持をすることなどが取り決められました。
これが現在、大谷本廟といわれるものであり、本願寺教団の基となったのです。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（おしまい）