中インド

シュラーヴァスティ国
シュラーヴァスティ国に到った。周囲は6000余里、伽藍数百、僧徒は数千人おり、共に正量部
(しょうりょうぶ)を学んでいる。ここは仏が在世の時、プラセーナジット王が都とした所である。城内には王殿の遺跡がある。その東にも旧跡があって、上にストゥーパが建っている。ここはプラセーナジット王が如来のために大講堂を作った所である。その隣の塔は釈尊の乳母(うば)のプラジャーパティー比丘尼の精舎である。その東の塔はスダッタの邸跡(やしきあと)である。邸の側に大きなストゥーパがあり、これはアングリマーラが悪行を捨てた所である。
城の南5~6里に逝多
(ジエーダ)林がある。すなわち給孤独園(ぎっこどくおん)で、昔は伽藍があったが、今はすっかり崩れている。東門の左右におのおの石柱があり、高さは70余尺でアショカ王が建てたものである。すべての建物は皆壊れ、煉瓦(れんが)製の室が一つあるのみである。中に金像があるが、これは昔釈尊が天に昇って母のために説法した時、プラセーナジット王が仏を慕う心もだかしく、ウダヤナ王が旃檀(せんだん)像を作ったということを聞き、この金像を作ったという。
伽藍のやや後方は、外道の男が女性を殺して仏を非難した所である。伽藍の東100余歩に大きな深い穴があり、ここはデーヴァダッタが毒薬で仏を殺そうとし、生身
(なまみ)のまま地獄に落ちた所である。その南の大きな穴は、僧コーカーリカが仏を非難して生身のまま地獄に入った所である。この穴の南800歩にもまた大きな穴があり、これは外道の女チンチャーが仏を非難して生身のまま地獄に陥(おちい)った所である。これら3つの穴はいずれも深くて、覗いてみても底が見えない。
伽藍の東70余歩に精舎があり、高く大きく、中に仏像が東面して安坐
(あんざ)している。ここは昔、如来が外道と共に論議された所である。さらに東方に天祠(てんし)があり、その大きさは精舎と同じである。太陽が移動するにつれて、天祠の影は精舎に届かないが、精舎の影は常に天祠を隠している。その東3~4里にもストゥーパがあり、ここはシャーリプトラが外道と議論した所である。大城の西北60余里に古城があり、ここは天地の成立以来、人寿2万年の時、迦葉波仏(カーシャパ仏)の父の城であった。城の南側はカーシャパ仏が悟りを開いた後、初めて父に会った所である。城の北に塔があり、塔の中にはカーシャパ仏の全身の舎利(しゃり)があり、共にアショカ王の建てたものである。
[註]
【室羅伐悉底国】
シュラーヴァスティ。旧に舎衛。古代16国の一つ、コーサラ国の主要都市。釈尊は後半生の大部分をここで送り、多くの経典を説いた。その遺跡はネパール国境に近いバルランプルの西北約18㎞のサヘト・マヘト村にある。
【鉢羅斯那恃多王】プラセーナジット。唐に勝軍という。旧に波斯匿。
【プラジャーパティー比丘尼】鉢羅闍鉢底。唐に生主という。旧に波闍波提。
【蘇達多】(すだった)唐に楽施という。旧に須達。
【アングリマーラ】鴦窶利摩羅。旧に央崛摩羅。
【逝多林】ジェータ。唐に勝林という。旧に祇陀。
【給孤独園】祇園精舎。
【デーヴァダッタ】提婆達多。
【生身】(なまみ)
【コーカーリカ】瞿伽梨。
【チンチャー】戦遮。
【天祠】(てんし)ヒンドゥー教の祠(ほこら)。
【シャーリプトラ】舎利子。
【天地の成立以来】賢劫中。
【迦葉波仏】カーシャパ。


カピラヴァストゥ国
国の周囲は4000余里あり、都城の周囲は10余里、共に皆荒れ果てている。宮城は周りが15里あり、煉瓦
(れんが)造りで極めて堅固である。内部にまずスッドーダナ王の御殿(ごてん)の遺跡があり、その上に寺を建て、中に王の像が置かれている。その北の遺跡はマーヤー夫人の寝殿(しんでん)で、ここにも寺を建てて内部に夫人の像を祀(まつ)ってある。その側にも寺があるが、ここは釈尊が母体に降臨された所であり、内部に菩薩降生(こうしょう)の像が置かれている。上座部(じょうざぶ)によれば、菩薩はウッタラアーサーダ月の30日の夜に母体に降臨し給うたというが、これは今の5月15日当たる。ところが、その他の諸部はウッタラアーサーダ月の23日としており、これは今の5月8日に当たっている。
東北にストゥーパがあるが、ここはアシタ仙人が太子を占った所である。城の左右には太子が多くの釈迦族の人々と相撲をした所がある。また太子が馬に乗って城から出られた所や、四門から出て老病死人と沙門
(しゃもん)を見、人生の無常を嫌って駕(かご)を引き返された所があった。
[註]
【劫比羅伐卒堵国】
カピラヴァストゥ。旧に迦毘羅衛国という。釈尊誕生の故国。都城址は誕生の地ルンビニーの西北約24㎞のチローラコト付近にある。
【浄飯王】スッドーダナ。釈尊の父。
【ウッタラアーサーダ月】インドの4月に当たる。
【アシタ仙人】阿私陀(あした)



ラーマグラーマ国
住民は少ない。旧市街の東南に煉瓦
(れんが)製のストゥーパがあり、高さは50余尺、如来が涅槃(ねはん)の後、この国の先王が舎利(しゃり)を分け与えられ、帰国して造ったもので、いつも光を放っている。その側に龍池があり、龍は時々姿を変えて人に変化し、塔の周りを経を読みながら廻り歩き、野象は花を持っていつも供養しに来ている。その側の近くに伽藍があり、沙弥(しゃみ)が寺を管理していた。
相伝えるところによれば、昔比丘が同行の者を招き、遠くこの地へやって来て、この塔を礼拝し、たまたま野象が花を摘んで来て塔の前に供え、また牙で草を刈り、鼻で水を注ぐのを見て感嘆せぬ者はなかった。中の一比丘は大戒
(たいかい)を捨てて、ここに止まって供養したいと願い、衆人に向かって、「象は畜生であるのに、なお塔を敬うことを知って花を供え清掃している。私は人間で、しかも仏によって出家の身である。どうしてこんなに荒れ果てた塔を見て奉仕しないではいられましょうか」と言って、人々に別れてここに止まり、小屋を作り地を耕して花や果樹を植え、寒暑をものともせず、倦(う)まず弛(たゆ)まず働いていた。
このことを聞き伝えた近隣の国々はおのおの財宝を投じて、共に伽藍を建て、それから僧務を司らせたという。その後は代々継承して今日に至り、遂に故事となったのである。

沙弥
(しゃみ)伽藍の東方へ、大林中を行くこと100余里にストゥーパがあり、アショカ王の建てたものである。ここは太子シッダールタが城を脱出してこの地に到り、宝衣(ほうい)天冠(てんかん)髻珠(かみかざり)を取って闡鐸迦(チャンタカ)に与え、城へ帰らせ給うた所である。また。髪を剃られた所にも皆塔の記があった。
[註]
【藍摩国】
ラーマグラーマ。ネパール国境、中インドの境。ダルマウリーやランプール・デオリヤなどの説がある。
【沙弥】出家して十戒を守り、具足戒を受けるまでの見習僧。
【比丘】ビシュク。具足戒を受けた修行僧。
【大戒】具足戒のこと。一般に比丘は250戒、比丘尼は348戒である。
【髻珠】髪飾り。
【闡鐸迦】チャンタカ。旧に車匿という。釈尊が出家した時の御者(ぎょしゃ)。


クシナガラ国
クシナガラ国も極めて荒れ果てていた。城内の東北隅にストゥーパがありアショカ王の建てたものである。ここは准陀(チュンダ)の邸(やしき)の跡である。邸内に井戸があり、釈尊に食事を作るために掘ったものといい、今も水は澄み映えている。町の西北34里でアジタヴァティー河を渡り、河岸近くに沙羅(さら)の林がある。その樹は槲(かし)に似て皮が青く葉は白くよく光っている。そこには4対のほぼ同じ高さの木があり、ここが如来の涅槃(ねはん)し給うた所であった。そこに大きな煉瓦(れんが)の精舎があり、内部に北枕に横たわる如来の涅槃の像があった。傍らに大ストゥーパがあり、高さ200余尺でアショカ王の造ったものである。また仏涅槃の事跡を記した石柱が建っていたが、年月は記してなかった。
伝記によれば、釈尊はこの世に80年生き、ヴァイシャーカ月の後半15日に涅槃
(ねはん)に入り給うたという。すなわち2月15日である。しかし、説一切有部(せついっさいうぶ)は釈尊はカールティカ月の後半に涅槃に入り給うたとしている。これによれば9月8日に当たる。涅槃から今日までは説に1200年、1300年、あるいは1500年といい、あるいは900年は過ぎたがまだ1000年に達していないともいう。
また如来は金棺
(きんかん)に座って母のために説法し、臂(ひじ)を出して阿難アーナンダに問い、足を現わして迦葉(カーシャパ)に示し、香木で遺体を焼き、8国の王が骨を分けたことなどが、皆塔に記されていた。
[註]
【拘尸那掲羅国】
クシナガラ。今のゴラクプ-ル地方東方約55㎞のカシアにある。現地には涅槃堂、焚身塔などがある。
【准陀】チュンダ。旧に純陀という。鍛冶工で、彼が仏に供養した旃檀樹茸により、釈尊は下痢を患い入滅の因となったという。
【アジタヴァティー河】阿恃多伐底河。今のラープティー河。唐に無勝という。旧に阿利跋底河。
【沙羅】シャーラ。
【吠舎佉月】ヴァイシャーカ月。インドの第2月で今の4~5月に当たる。
【カールティカ月】迦刺底迦月。インド第8月で今の8~9月に当たる。
【阿難】アーナンダ。
【迦葉】カーシャバ。


バーラーナシー国
クシナガラからまた大きな林の中を500里余り行くと、婆羅泥斯(バーラーナシー国である。国の周囲は4000余里、都城は西側はガンガーに臨んでおり、長さは10余里、広さは5~6里で、ここに伽藍30余か所、僧2000余人おり、小乗一切有部(いっさいうぶ)を学んでいた。
[註]
【婆羅痆斯国】
バーラーナシー。今のベナレス。古代16国の一で、水陸交通の要地を占め、商業貿易の中心。


サールナート
バーラーナシーからガンガー河を渡って東へ10余里行くと、鹿野(ろくや)伽藍である。台観(だいかん)は雲に連なり、四方に長い廊下が連なっている。ここには僧侶1500人が住み、小乗正量部(しょうりょうぶ)を学んでいる。伽藍内に寺院があり高さは100余尺、石の階段や煉瓦(れんが)の仏龕(ぶつがん)の層数は100数階あり、仏龕には皆黄金の仏像を浮き彫りしてある。内陣(ないじん)には真鍮(しんちゅう)製の仏像があり、この仏像は大きさは如来の等身大で、初転法輪(しょてんぼうりん)の有り様を写している。
寺院の東南には石のストゥーパがあり、高さ100余尺でアショカ王の作である。その前に高さ70余尺の石柱があるが、こここそ釈尊が初転法輪された場所である。その側にマイトレーヤ菩薩が受記
(じゅき)された所がある。次いで西にあるストゥーパは、昔釈尊が護明(ごみょう)菩薩となり、賢劫(けんごう)のうち人寿2万年の時に、カーシャバ仏に受記され給うた所である。この釈尊が受記された所の南側は、過去の四仏が経行(きんひん)された所で、長さ50余歩、高さ7尺の青石で積み上げた壇があり、上に四仏経行の像がある。
伽藍の西には如来が入浴した池、食器を洗った池、法衣を洗った池があり、共に龍神が守護していて、人に汚させないようにしている。池の側にストゥーパがある。そこには釈尊が菩薩行を修めている時、6牙の白象となって猟師に牙を施した所、また鳥となり給うた時、猿と白象とバンヤン樹下に約束して長幼の序を定め、巡回して人々を化した所、さらに鹿王となった所、憍陳如
(カウンディンヤ)らの5人を済度(さいど)された所である。
[註]
【鹿野伽藍】
鹿野苑。ベナレスの北約6㎞、今のサールナート。7~8世紀はグプタ仏教美術の中心地として繁栄。
【マイトレーヤ菩薩】梅怛麗。唐に滋氏という。旧に弥勒。
【受記】仏がその弟子にしかじかの因縁により将来必ず菩薩の果を得るであろうと予言すること。
【護明菩薩】喜護の意。
【白象】六牙白象本生。
【バンヤン樹】尼拘律樹。
【鳥猿象】鳥猿猴象本生。
【憍陳如】カウンディニャ。


ヴァイシャーリー国
国の周囲は5000余里、土地はよく肥えていて、マンゴーやバナナが多い。都城は荒れ果て、元の城壁は周囲60~70里もあるが、住民は甚だ少ない。
旧城の西北5~6里に一寺があり、その傍らにストゥーパがある。ここは昔釈尊が『毘摩羅結経』を説かれた所である。また、その東北3~4里のストゥーパはヴィマラキールティの邸跡
(やしきあと)を示すもので、その家は今なお霊異(れいい)が多いという。この近くに石造の一室があるが、ここはヴィマラキールティが病を現じて説法した所である。その側にまたヴィマラキールティの子ラトナカーラの故宅(こたく)やアームラパーリーの故宅がある。
次に北方3~4里にストゥーパがある。ここは釈尊がまさにクシナガラ国に赴いて涅槃
(ねはん)し給わんとし、天人を従えて佇(たたず)まれた所である。その西には、釈尊が最後にヴァイシャ―リー国を見給うた所がある。その南はアームラパーリーがマンゴー園を釈尊に布施した所である。また釈尊が魔王に涅槃を許された所もある。
ヴァイシャ―リー国の南境からガンガー河を去ること100余里で湿吠多補羅城シュヴェータプラ城)に到り、ここで玄奘は『菩薩蔵経』を購入した。
[註]
【吠舎釐国】
ヴァイシャーリー。旧に毘舎離。古代16国の一。リッチャヴィ族の住地。パトナ北方バサーリに都城の遺跡がある。釈尊は在世中に度々この地を訪れ、涅槃直前にも遊行した。
【毘摩羅結経】(びまらけっきょう)維摩経(ゆいまきょう)。
【ヴィマラキールティ】毘摩羅結すなわち維摩居士(ゆいまこじ)。
【ラトナカーラ】宝積。
【アームラパーリー】菴摩羅女。
【湿吠多補羅城】シュヴェータプラ。白城の意。ヴァイシャ―リー国の南方、ガンガー河の北方100里とあるが、位置未詳。
菩薩蔵経】(ぼさつぞうきょう)


マガダ国
この国の周囲は5000余里で、人々は学を尊び賢人を重んじている。伽藍は50か所余りあり、僧侶は10000余人、大部分は大乗学(だいじょうがく)を学んでいる。
南側に故城があり周囲70里余りで、すっかり荒れ果ててはいるが、城壁上の副壁はまだ残っている。今から数万年前、ここは拘蘇摩補羅城
(クスマプラ城)と呼ばれた。王宮に花が多かったので、このように呼んだという。また人寿数千年の時、さらに波托釐子城(パータリプトラ城)と呼んだが、これはパータリ樹によって名づけられたという。
釈尊の涅槃
(ねはん)後100年でアショカ王が現われた。王は即ちビンビサーラ王の曽孫(ひまご)で、王舎城(おうしゃじょう)から遷都してここへ来たのであるが、遠い昔のことなので、今はただ遺跡が残っているのみである。かつては伽藍数百と言われたが、今残っているのは2~3しかない。
この元の宮殿の北方、ガンガー河の岸辺に1000余戸の家々を持つ小城がある。同じ方向に高さ数十尺の石柱があり、ここはアショカ王が地獄を作った所である。玄奘はこの小城に7日滞在して仏跡を巡礼した。地獄の南に、いわゆるアショカ王の八万四千塔の一大ストゥーパがある。王は人力によってこれらを建立したのである。ストゥーパの中には釈迦如来の舎利
(しゃり)が1斗(と)あり、常に神光を放っている。
次に寺院があり、内部に釈尊が踏んだ石がある。石の上には釈尊の両足の跡があり、長さ1尺8寸、広さ6寸で、両足の下には千輻輪相
(せんぷくりんそう)があり、十指の端には万字(まんじ)花文(けもん)(びょう)魚などがいずれもはっきりと見えている。この仏足蹟(ぶっそくせき)は、如来がまさに涅槃(ねはん)に入ろうとされて、ヴァイシャ―リーを出発してこの地に到り、川の南岸の大きな方形の岩の上に立ち、アーナンダを顧みて、「こここそは、私が最後に金剛座と王舎城を望んで留まった跡である」と言われた時のものである。
この寺の北に高さ30余尺の石柱があり、アショカ王が三度仏法僧
(ぶっぽうそう)に施し、三度珍宝をもってこれを買い戻した事跡を記している。
故城の東南に屈屈托阿濫摩寺院
(クルクターラーマ寺院)の遺跡がある。これはアショカ王の造った寺で、1000人の僧を召してもろもろの供養をした所である。玄奘はこれらの聖跡を7日間滞在して普く礼拝したのであった。また、西南に67由旬(ゆじゅん)行くと底羅磔加寺(テイラシャーキャ寺)に到った。この寺には三蔵が数十人おり、玄奘が来たのを聞いて皆出迎えにやって来た。
[註]
【摩掲陀国】
マガダ。旧に摩伽陀。古代16国の一。パトナ、ガヤを中心とするガンガー河中流域の強国。水陸交通の要衝にあって、永く繁栄を誇った。
【拘蘇摩補羅城】クスマプラ。唐に香花宮城という。
【波托釐子城】パータリプトラ。旧に凞連保弗邑。「パータリ」は淡赤色の花をつける樹木名。古城址は今のパトナ西北郊にある。
【アショカ王】阿輪迦。唐に無憂王という。入に阿育王。
【ビンビサーラ王】頻婆娑羅王。唐に影堅という。
【釈尊が踏んだ石】いわゆる仏足跡。
【屈屈托阿濫摩寺院】クルクターラーマ寺院。唐に鶏園という。
【底羅磔加寺】テイラシャーキャ寺。『西域記』鞮羅釈迦。


ブッダガヤ
ここから南方へ行くこと100余里で菩提樹(ぼだいじゅ)に到った。樹の囲いは煉瓦(れんが)を積み重ねたもので、極めて高く堅固で、東西に長く南北にやや狭い。正門は東方に開いてナイランジャナー河に対し、南門は大花池に接し、西は険しい丘に閉ざされ、北門は大伽藍に通じており、その中に聖跡が連接(れんせつ)し、あるいは寺院、あるいはストゥーパがあり、これらは共に諸王、大臣、富豪、長者が釈尊を慕い、競って営造したもので、それぞれの名を残している。
これらの真ん中に金剛座
(こんごうざ)がある。天地開闢(かいびゃく)の時、大地と共にできたものである。これは三千大世界の中央にあり、下は金輪(こんりん)を極め、上は地の果てに等しく、金剛で形造られ、周囲は100歩である。金剛という名はこの座が堅固で壊すことができず、よく万物を破壊しうるところからきている。もしこの所に依らなければ、仏陀(ブッダ)は地上に留まることができなかったであろう。もし金剛で座を作らなければ、大地は金剛定(こんごうじょう)を発するに堪えきれないのである。したがって、諸仏が降魔(ごうま)成道(じょうどう)しようとすれば、必ずここにいるのであって、もし他の所にいると必ず大地が傾き割れてしまう。そこで天地開闢(かいびゃく)以来の千仏は皆金剛座に着くのであって、成道の所とも道場ともいう。世界が傾き揺らいでも、この所だけは絶対に動かないという。
ここ100~200年来、衆生は福縁薄く、菩提樹下に行っても金剛座を見ることができないのである。仏涅槃の後、諸国の王は2体の観自在
(かんじざい)菩薩像を金剛座の南北の境界の標(しるし)として東向きに座らせた。そして、この菩薩の身体が没して見えなくなれば、仏法はまさに亡びるであろうと言い伝えられた。今玄奘がこの地を訪れた時、南辺の菩薩像は既に胸まで地中に没していた。
その菩提樹は即ち卑鉢
(ピッパラ)樹である。如来在世の時には高さ数百尺であったが、この頃はたびたび悪王のために伐採(ばっさい)され、今は高さ5丈余りに過ぎない。釈尊がこの樹下に座り、そこで悟りを開かれたので菩提樹というのである。樹幹(じゅかん)は黄白色で枝葉は青潤(せいじゅん)であり、秋冬にも葉が落ちず、ただ如来涅槃(ねはん)の日になるとその葉が急に落ち、日が経つに連れてまた元のように青々と繁るのである。毎年涅槃の日には、諸国の王は家来と共にこの樹の下に集まり、乳で菩提樹を洗い、燃燈(ねんとう)散華(さんげ)して落ち葉を集めて帰るのである。
玄奘はここで菩提樹と滋氏菩薩
(じしぼさつ)が作った仏成道の像を至誠(しじょう)込めて礼拝し、五体を地に投げて悲哀(ひあい)懊悩(おうのう)し、自ら嘆き悲しんで、「仏成道の頃、私はどこでどのような生を送っていたか自分でも分らない。今像季(ぞうき)に到って、ようやくこの地を訪れることができた。思うに、私は何故かくも罪業(ざいごう)が深いのであろうか」と悲涙(ひるい)を目にみなぎらせて泣いた。ちょうどその日は夏坐(げざ)の解かれる日で、遠近の衆僧が数千人もここへ集まっていたが、玄奘を見て貰い泣きせぬ者はなかった。
[註]
【菩提樹】
ブッダガヤ大塔すなわちマハーボディ中央の金剛座の傍らにある。
【ナイランジャナー河】尼蓮禅河。
【大伽藍】摩訶菩提僧伽藍即ち大覚寺。
【金剛】ヴァジュラ。
【悪王】『西域記』によれば、アショカ王と王妃及び後世の設賞迦王らの名をいう。
【慈氏菩薩】弥勒。
【像季】末法の世。


ナーランダー寺
この付近1由旬(ゆじゅん)には数多くの聖跡があった。玄奘はここに8~9日滞在して、普く聖跡を礼拝した。
10日目に那爛陀寺
(ナーランダー寺)の人々が4人の大徳(たいとく)を遣わして玄奘を迎えに来たので、一緒に行くことになった。7由旬(ゆじゅん)ばかり進むと那爛陀寺の荘園に着いた。ここは目蓮(モクレン)尊者が生まれた村である。玄奘はここで食事をした。しばらくすると、さらに200余人の僧侶が1000余人の信者と旗や日傘や花や香を持って出迎えに来、皆で玄奘を誉め讃え、周りを取り囲みながら那爛陀寺に入った。那爛陀寺の衆僧は既に集まっていて、共に玄奘と会見した。上座の上の方に別に床机(しょうぎ)を置き、玄奘はそこに座らせられ、衆僧もおのおのの座に着いた。座り終わると維那(ゆいな)が板木を打って衆僧に、「今より法師はこの寺に住むことになった。寺の中のすべて僧がもちうる法物、道具は悉く共用である」と唱えさせた。
それから経律(きょうりつ)をよく解し、威儀(いぎ)正しい老人でもなく余り若くもない僧20人を選び、玄奘を連れて正法蔵(しょうぼうぞう)に会見させた。正蔵坊とはすなわち戒賢(かいけん)法師のことで、人々は彼を尊重してその名を呼ばず、正法蔵と呼んでいるのである。
こうして玄奘は人々と共に正法蔵に拝謁し師事することになった。そこで努めて恭しく敬礼し、インドの作法に従って膝と肘で進み、足を鳴らし額を床につけて礼拝し、丁重に挨拶と尊敬の言葉を述べた。すると、正法蔵は広く床座
(しょうざ)を置かせ、玄奘や諸僧を座らせ、「そなたは何処から来られたか」と尋ねた。「私はチーナ国から参りました。師の御許(みもと)で『瑜伽論』を学びたい一心でやって参りました」と答えると、正法蔵は聞き終わって涙を流し、弟子のブッダバドラを呼んだ。彼は法蔵の甥で、年は70余歳、広く経論(きょうろん)に通じて談話に巧みな人であった。法蔵が「そなたが人々のために、私の3年前までの病気の因縁について話してあげてください」と言うと、ブッダバドラは泣いて涙をぬぐいながら次のように説明した。

正法蔵はもと風病を患われ、発作のたびに手足が痛んで火に焼かれたり刀で刺されるようでありました。急に発病したかと思うとたちまち治り、そんな状態が20余年も続いたのです。最もひどかったのが3年前のことで、苦痛は甚だしく、ご自身の身を厭(いと)われて断食して自殺しようとされました。ところがある夜、夢に3人の天人が現われました。その一人は黄金色、二人目は瑠璃(るり)色、三人目は白銀色で風采(ふうさい)麗しく、その服は、軽やかで輝いていました。三人は正法蔵に近づいてくると、「そなたは自ら身を捨てようとしているのか。経典には身に苦があることを説いているが、身を捨てることは説いていない。そなたは過去にかつて国王となり、多くの国民を悩ませたので、今その報いを受けているのである。今こそよろしく過去の罪業(ざいごう)を反省して、至誠(しじょう)を尽くして懺悔(さんげ)すべきである。苦しい時は安んじて忍び、努めて経論を弘(ひろ)め、自ら罪業を消すべきである。今ただ身を厭(いと)うて死んでも、苦は永劫(えいごう)に尽きないであろう」と言った。正法蔵は聞き終わって、心を込めて礼拝すると、その金色の人は碧(みどり)色の人を指して、「そなたは知っているか、この人こそ観自在(かんじざい)菩薩である」と言い、また銀色の人を指して「この方は慈氏(じし)菩薩である」と言われた。正法蔵は慈氏に礼拝して「私はいつも御許に生まれ変わることを願っております。この願いは達せられましょうか」と言うと「そなたが正法(しょうぼう)を広く伝えたならば、後世にはその願いが達せられよう」と答えられた。その時、金色の人は、「私は曼殊室利(マンジュシュリー)菩薩である。私たちはそなたが空しく身を捨てようとしており、それが利益とならないのを見て、今ここに来てそなたに飜心(ほんしん)を勧めているのである。そなたは今こそ私の言葉に従い、正法『瑜伽論』などを普くまだ知られていない地方に及ぼしなさい。そうすれば、そなたの身は次第に安らかになるであろう。使者を遣わし得ぬことを憂うる必要はない。チーナ国に一人の僧がおり、大法を流通(るづう)せんことを願い、そなたに就いて学びたいと心から欲している。そなたは待っていて、その者に教えなさい」と言った。正法蔵は聞き終わって礼拝し、「謹んでみ教えに従います」と申し上げると、3人の姿はもう見えなかった。しかし、それ以来、正法蔵の病苦は忘れたように消えてしまったのです。

これを聞いて衆僧は皆稀有
(けう)のことであると称嘆(しょうたん)せぬ者はなかった。
玄奘は親しくこの話を聞いて、余りの喜びに心の高ぶりを抑えることができなかった。さらに礼謝して「もしお話の通りであれば、私は全力を尽くして勉強させていただきたいと思います。どうか尊師よ、お慈悲をもってお教えください」とお願いした。正法蔵はまた、「法師よ、そなたは何年かかってここまで辿り着いたか」と尋ねられ、「3年でございます」と答えると、まさに昔の夢の時期と合致している。正法蔵は種々教えを諭して玄奘を歓喜させ、以て師弟の情を述べ、玄奘は話が終わってから退出した。

こうして玄奘は幼日
(ようじつ)王院に行き、ブッダバドラの僧坊の4階に案内された。まず7日間の供養を受け、さらに護法(ごほう)菩薩の僧房(そうぼう)の北にある客室に案内され、もろもろの物資を供給された。すなわち毎日キンマカ果120枚、ビンロージの実20個、荳蔲(ずく)20個、龍脳香(りゅうのうこう)一両、供大人(マハーシャーラ)米一升を与えられた。その米は烏豆(くろまめ)よりも大きく、炊いてみると美味なことは他のいかなる米より優れている。この粳米(うるちまい)はマガダ国のみ産し、他の所では採れない。そこで国王と博識の大徳に供するのみなので、マハーシャーラ米というのである。さらに毎月油3升を支給し、バターなどは毎日必要量を供給された。清掃人一人とバラモン一人が置かれ、もろもろの僧の務めは免ぜられ、外出には象の輿(こし)に乗ることを許された。ナーランダー寺の僧や客層で、このような待遇を受けているのは、玄奘を入れて10人しかなかった。玄奘は遥か外国に遊学して、しかもこのように優遇されたのであった。
ナーランダー寺とは施無厭(せむえん)寺の意である。老人の話によると、この寺院の南のマンゴー園の中に池があり、その池にナーランダーという龍がいたので、傍らに建てた寺院をナーランダーと言うようになったという。別の説によると、如来が昔菩薩であった時、大国の王となって都をここに置き、貧者を憐れんでいつも物を与え恵みを施したので、その恩を思ってその所を世無の地と名づけたという。この土地は元アームラ長者の庭園であったが、500人の商人が10億の金銭で買い取って釈尊に施した所である。釈尊はここで3か月間説法し、多くの商人が果報を得たことを悟ったのであった。
仏涅槃の後、この国の先王シャクラーティトヤは、釈尊を敬慕するの余り、ここにこの伽藍を造った。王の没後、その子ブッダグプタ王は父王の宏業
(こうぎょう)を受け継ぎ、その南方にまた伽藍を造った。その子タターガタ王は、さらに東に伽藍を作り、その子バーラーデイトヤ王は東北方に伽藍を建てた。その次の王は中国から聖僧がこの地に赴き、その寺院に供養されたのを見て心に喜びを生じ、自ら王位を捨てて出家した。その子バシュラは位を継ぎ、また北に伽藍を建てた。その後、中インドの王も側に伽藍を建てた。このように6人の皇帝がそれぞれ父王の遺業を継いで造営し、また煉瓦(れんが)でその周りを囲み、合わせて一つの寺にし、全てに一つの門を建て、庭園は別々にして内部を8院に分けた。
内部に入ってみると、宝台は星のように並び、玉楼
(ぎょくろう)はあちこちに聳(そび)え、広大な建物は煙や霞(かすみ)の上に立ち、風雲は戸や窓に生じ、日月は軒端に輝く。その間を緑水が緩やかに流れ青蓮(しょうれん)が浮かんでいる。所々にカニカーラ樹が花咲き、外にはマンゴーの樹林が点綴(てんてつ)している。諸院、僧房は皆4階建てで、これらの建物は棟木や梁は七彩の動物で飾られ、斗栱(ときょう)は五彩、柱は朱塗りで様々な彫刻があり、礎石は玉製で文様が美しく刻まれ、甍(いらか)は日光に輝き垂木は彩糸に連なっている。インドの伽藍数は無数であるが、このナーランダー寺ほど壮麗崇高なものはない。
ここには僧侶は客層を入れて常に1万人おり、共に大乗を学び小乗十八部も兼学している。そして、俗典、ヴェーダなどの書、因明(いんみょう)声明(しょうみょう)医方、術数に至るまで、共に研究している。ここには経論20部を解する者が千余人おり、20部の者は500余人、50部の者は玄奘を入れて10人いた。ただ戒賢法師のみは一切の経論を究め尽し、高徳年老い、まさに衆僧の宗匠(そうしょう)であった。寺内の講座は毎日100か所で開かれ、学僧たちは寸陰を惜しんで研学している。このような高徳の人々がいる所であるから、人々の気風は自ずから厳粛(げんしゅく)で、建立以来700余年になるが、未だかつて一人も犯罪人の出たことがない。国王もこの寺を厚く尊敬し、100余の村を荘園としてその供養に当てている。荘園の200戸から毎日酥乳(そにゅう)数百石が進奉され、これによって、学人は求めることなしに四事自足し、芸業を成就させることができる。こうすることができるのも、皆荘園のお蔭である。
[註]
【1由旬】
ヨージャナ。踰繕那。1由旬は7.3㎞。
【那爛陀寺】ナーランダー寺。ナーランダーは施無厭の訳。ラージギル北方約11㎞、バルガオン村にある。5~12世紀の間、インドにおける最大の仏教大学。玄奘も5年間研学した。
【維那】ユイナ。羯磨陀那、カルマダーナともいう。寺中の事務を執る僧。
【戒賢法師】(かいけん)尸羅跋陀羅、シーラバドラ。
【ブッダバドラ】仏陀跋陀羅。唐に覚賢という。
【風病】リュウーマチス。
【曼殊室利菩薩】マンジュシュリー。文殊。
【シャクラーティトヤ】鑠迦羅阿迭多。唐に帝日という。

【ブッダグプタ】仏陀毱多。唐に覚護という。
【タターガタ】怛他掲多。唐に如来という。
【バーラーデイトヤ】婆羅阿迭多。唐に幼日という。
【バシュラ】伐闍羅。唐に金剛という。
【カニカーラ樹】羯尼花樹。
【因明】論理。
【声明】音韻。
【医方】薬学。
【術数】数学。
【四事】衣食寝薬。


ラージャグリハ~1
こうして玄奘はナーランダー寺に安住することができたので、王舎城(おうしゃじょう)に赴いて聖跡を礼拝した。
王舎旧城は、かの地ではクシャーグラプタという。城はマガダ国の中にあり、古代の君主の多くはその中に住んでいた。その地はまた非常に良い香りのする茅
(ちがや)を生ずるので、そこでその名を取ったという。四方は皆山で、険しいことはあたかも削ったようである。西に小道を通じ、北方に大門があり、東西に長く南北に狭く、周囲は150里余りである。その中にさらに周囲30余里の小城がある。カニカーラ樹が所々に林をなし、いつも花開いて一年中花のない時はなく、葉は金色のように映えている。
宮城の北門の外にストゥーパがある。これはデーヴァダッタがアジャータシャトルと、護財
(ござい)という酔象(すいぞう)を放って仏を殺そうとした所である。その東北方にもストゥーパがあるが、ここはシャーリプトラがアシヴァジット比丘の説法を聞いて仏法に帰依した所である。その近くの北方に大きな深い穴があるが、これはシュリーグプタが外道の邪言に惑わされ、火坑(かこう)や毒飯で釈尊を殺そうとした所である。この火坑の東北方の山城の角にストゥーパがあるが、ここはジーヴァカ大医が釈尊のために説法堂を造った所で、現にジーヴァカの故宅(こたく)が残っている。
宮城から東北へ14~15里行くとクリドゥラクータがある。その山はいくつもの丘が連なり、北嶺は特に高く聳えている。その形がちょうど鷲のようで、また高台にも似ているのでこの名がある。泉石は清く、樹林は鬱蒼
(うっそう)としている。如来はご在世の時、大部分をこの山で過ごされ、『法華』『大般若』などの多数のみ教えを説かれた所である。
[註]
【クシャーグラプタ】
矩奢羯羅補羅城。山城の意。旧に王舎城。唐に上茅宮城という。「クシャー」は祭式用の敷物の草で上茅、吉祥草などと訳す。マガタ国のビンビサーラ王時代に栄えたが、晩年王子アジャセ王は、その北方に新王舎城を造った。旧王舎城は山に囲まれた盆地だが広潤である。しかし、新王舎城はさらに広大な平地に建設された。
【デーヴァダッタ】提婆達多。
【アジャータシャトル】阿闍世、未生怨。
【シャーリプトラ】舎利弗。
【アシヴァジット比丘】阿湿婆恃。
【シュリーグプタ】室利毱多。唐に勝密という。
【ジーヴァカ】時縛迦。旧に耆婆。
【グリドゥラクータ】姑栗陀羅矩托山。唐に鷲峰という、また鷲台という。一名霊鷲山、旧に耆闍崛山。いわゆる霊鷲山のこと。旧王舎城の東北にあり、釈尊が数々の説法をされ、特に法華経を説かれた所として名高い。
【法華】(ほっけ)
【大般若】
(だいはんにゃ)


カーランダ竹園
クシャーグラプタ城の北門から1里余りでカーランダ竹園に到る。今現に煉瓦(れんが)造りの部屋があり、ここは昔如来がもろもろの戒律を作られた所である。
園主はカーランダという人である。彼は初めこの竹園をもろもろの外道に施したが、後釈尊に会ってその深い教えを聞き、この園を如来に施すことができなかったことを悔やんだ。ところが、地神がカーランダの意中を知り、災いや怪奇を現して外道たちを恐れさせ、彼らを追い出して、「カーランダ長者はこの竹園を釈尊に施そうと欲している。汝らは速
(すみ)やかに去るべきである」と言ったので、外道は怒って園を出てしまった。これを見た長者は大いに喜び、寺院を建て、自ら赴いて釈尊をお招きしたので、釈尊は長者の心を嘉(よみ)してこれを受け入れられたのである。
園の東にストゥーパがあり、アジャータシャトル王の建てたものである。如来が涅槃
(ねはん)された後、諸王は共に舎利(しゃり)を分けたが、アジャータシャトル王もその一部を受け、持ち帰ってこの塔を建てて供養した。後、アショカ王は一念発起(いちねんほっき)して普く各地に塔を造ろうとし、この塔下の舎利も取ったが、なお少しばかりは留めておいた。この舎利は今も常に光明を放っている。
竹園の西南5~6里に山の側に別の竹林がある。中に大きな石室があるが、ここは尊者マハーカーシャバが999人の大阿羅漢と共に如来涅槃の後、三蔵を結集
(けつじゅう)した所である。

いよいよ結集の時には無数の聖衆
(しょうじゅ)が雲の如く集まった。迦葉(かしょう)は、「皆さんの中で自ら三明(さんみょう)、六通(ろくつう)の才を供え、釈尊の一切の法蔵(ほうぞう)を誤りなく理解できる人はここに留まってください。それ以外の人はそれぞれの安住の地へ行ってください」と言い、999人を得たのであった。当時阿難(あなん)もこの学地にいた。そこで迦葉は阿難に向かって、「そなたはまだ完全な聖者ではない。だからここへ来て諸衆を汚してはならない」と言った阿難は大いに耻(は)じ、一夜勤行して三界の結(けち)を断ち阿羅漢となり、帰って来て門を叩いた。そこで迦葉は「汝(なんじ)は三界の結を断ったか」と尋ねると、「その通りである」と答えたので、「もし結が尽きたならば、門を開かなくとも意のままに入れるであろう」と言った。そこで阿難は戸の隙間から入って、迦葉の足下に礼拝した。迦葉は阿難の手を取って、「私はそなたがもろもろの欠点を除き、聖者の域に達することを願って、殊更(ことさら)に汝を追い出したのである。そなたはよろしく私の真意を悟り、恨みに思わないでください」と言った。阿難は、「もし貴方に恨みを持ったならば、どうして結が尽きたなどと申しましょう」と答え、礼謝して座った。その日はちょうど初安居(あんご)の15日目の日であった。
迦葉は阿難に向かい、「釈尊はいつも人々に、そなたは多聞
(たもん)第一で、もろもろの法を全て知っていると言われていた。どうか貴方は座に上がって人々のためにスートラ蔵を(ず)してください」と語った。すなわち一切経(いっさいぎょう)である。阿難はこの命(めい)を受け、仏涅槃の山の方に向かって恭しく頭を下げ、座に上がって経を誦した。衆僧は言葉に従ってこれを記録した。一切経が記録し終わると、次はウパーリに命じてヴィナヤ蔵を口述せしめた。すなわち一切の戒律である。これが終わると、最後に迦葉自らアビダツマ蔵を誦した。すなわち一切の論議である。こうして3か月の安居中に悉く三蔵を集め終わり、これを貝葉(ばいよう)に書いて普く流通(るづう)させることができた。そこでもろもろの聖僧は大いに喜び、「私たちはここに集まって、おのおの仏恩に報ずることができた。今日、釈尊の教えを聞くことができるのは、まさに結集(けつじゅう)のお蔭である」と言った。この結集は大迦葉が僧中の上座であったので上座部(じょうざぶ)と名づけている。

また、竹林の西20里にストゥーパがあり、アショカ王の建てたものである。ここは大衆部(だいしゅうぶ)の人々が集まった所である。大迦葉結集の時に参加できなかったもろもろの学僧、無学の人々数千人が共に集まり、「釈尊ご在世の時、私たちは師を一にして共に学んだのに、釈尊が永眠されると私たちは除名されてしまった。私たちも法蔵を結集して仏恩に報じようではないかと言って、スートラ蔵、ヴィナヤ蔵、アビタツマ蔵、ゾウジュウ蔵、ドハーラニ蔵を集め、分類して五蔵とした。この人々の中には聖僧、凡僧が共に入り混じっているので、これを大衆部という。
[註]
【カーランダ竹園】
迦蘭陀竹園。いわゆる竹林精舎のこと。旧城から新城に向かう途中の左側にある。
【アジャータシャトル王】阿者多説吐路王。唐に未生怨という。旧に阿闍世。
【石室】新王舎城の南にある南山にある大石窟。第1結集の場として名高い。
【マハーカーシャバ】摩訶迦葉波。
【大阿羅漢】悟りを開いた真人(しんじん)。
【三明】過去未来の因相を知り、煩悩を断絶できるもの。
【六通】六神通。
【阿難】アーナンダ。
【ウパーリ】優波離。律第一
【ゾウジュウ蔵】雑集蔵。


ラージャグリハ~2
次に東北へ3~4里行くとラージャグリハがある。外郭
(がいかく)は既に壊れているが、内城はなお高く聳(そび)え、周囲は20余里で各面に一つずつ門がある。初めビンビサーラ王がクシャーグラプタ宮城(きゅうじょう)にいた時、人民繁栄して民家が接続し、時々火災が起こった。そこで王は厳しく防火の制を立て、もし不注意で失火したものがあれば、その人を城外の寒林(かんりん)に移した。寒林とはその国の死屍(しし)を捨てる所である。ところが、間もなく王宮で失火した。すると王は「私は人主でありながら、自ら失火の罪を犯してしまった。もし私自身を罰しなければ、人民を懲らしめることはできない」と言って、太子に命じて国政を執(と)らせ、王は寒林に移って行った。
その時、隣国のヴァイシャーリー王は、ビンビサーラ王が城外にキャンプしていると聞いて、兵を引いて襲撃しようとした。スパイがこれを聞いて王に上奏
(じょうそう)し、止むなく王は城壁を築いた。そして王がここに「舎(お)る」ので王舎城(おうしゃじょう)と名づけたが、これが即ち新城である。後にアジャータシャトル王が王位を継いでここに都し、アショカ王の時、都をパータリプトラに移し城はバラモンに与えてしまった。今城中にはただ1000余戸のバラモンの家があるのみである。宮城内の西南隅にストゥーパがあり、ここはジョーティシュカ長者の故宅(こたく)であり、側にまたラーフラを教化した所がある。
ナーランダー寺の西北に大寺院があり、高さ300余尺でバーラディトヤ王の建てたものである。この寺の装飾は非常に美しい。その中の仏像は菩提樹
(ぼだいじゅ)像と同じである。この寺院の東北にストゥーパがあり、ここは昔如来が7日間説法された所である。西北には過去四仏の座処があり、その南に黄銅製の精舎がある。これは戒日王(かいにちおう)が建てつつあるもので、まだ未完だが、出来上がれば高さ10余丈となるであろう。
次に、その東200余歩に銅の仏の立像がある。高さ80余尺で6階の建物で、これを覆っている。共に昔プールナバルマン王が造ったものである。その東数里にストゥーパがあり、ここは釈尊が初めて成道
(じょうどう)し、王舎城に向かってここまで来られた時、ビンビサーラ王が国民大多数の衆と共に出迎え、仏に会った所である。
さらに東に30余里行くと、インドラシャイラグハー山がある。山の東峰の伽藍の前にストゥーパがあり、僧娑
(はんさ)という。昔、この伽藍は小乗により三浄肉(さんじょうにく)を食していた。ある時山内(さんない)に肉がなくなり、係の僧は困ってしまった。たまたま群鴈(ぐんがん)が空を飛んでいるのを見て、戯(たわむ)れに空を仰いで、「今日は僧の食事に肉がない。菩薩よ、よろしくお察しください」と言った。すると、言い終わるや否や、目の前に飛んでいた雁(かり)が声に応じて引き返して、翼を雲で切ってさっと身を投じて落ちてきた。その僧はこれを見て恐れ慄(おのの)き、この話を普く衆僧に告げたので、聞いた人々は皆驚いて、この鴈に涙を注がぬ者はなかった。そして、「その鴈は菩薩である。どうして我々がこれを食べられようか。また釈尊は戒律を設けて漸次(ぜんじ)に教えられているのに、我々は釈尊の最初の教えを究極の説となし、愚(ぐ)を守って改めず、このような殺生をしてしまった。これからは我々も大乗に従い、もう三浄(さんじょう)は食べないようにしようではないか」と言い、皆で霊塔を建てて死んだ鴈を中に埋め、表記してその決意を示し、永くこの美談を伝えさせることにした。この塔はそのような経緯を持っていたのである。玄奘はこれらの聖跡を皆普く巡礼したのであった。
[註]
【ラージャグリハ】
曷羅闍姞利四(口偏+四)多城。唐に王舎城という。新王舎城。インド鉄道のラージギル駅の近くにある。旧城から竹林精舎、カーランダ池跡を越えると間もなく新王舎城の城壁の遺構を見ることができる。
【ビンビサーラ王】頻毘娑羅王。
【クシャーグラプタ宮城】上茅宮城。
【ジョーティシュカ長者】殊底色迦。唐に星暦という。旧に樹提伽。
【ラーフラ】羅怙羅。すなわち仏の子である。
【バーラディトヤ王】婆羅阿迭多王。
【プールナバルマン王】満冑王。
【インドラシャイラグハー山】因陀羅勢羅窶訶山。帝釈窟。
【僧娑】(はんさ)唐に鴈という。


ナーランダー寺~2
こうして玄奘はナーランダー寺に帰り、いよいよ戒賢
(かいけん)法師に『瑜伽論』の講義を請うこととなった。同時に聴講する者は数千人の大きを数えた。開講後しばらくして一人のバラモンがやって来て、場外で泣いたり笑ったりした。どうしてそんなことをするのかと人をやってみると、かのバラモンは、「私はインドの者です。昔、ボータカラカ山の観自在(かんじざい)菩薩像の前で、私は王になりたいと願を懸けたところ、菩薩は私のために身を現わして叱責(しっせき)し、そなたはこんな願をしてはならぬ。後某年某日に、ナラーランダー寺の戒賢法師がチーナ国の僧のために『瑜伽論』を講ずるであろう。そなたはまさに赴いてその講義を聞け。その話を聞けば、後に仏を見ることができよう。王などになる必要はないと言われたのです。ところが、昔のお言葉通り、今チーナ僧が来て正法蔵(しょうぼうぞう)が講義をされています。余りの暗合(あんごう)に思わず我を忘れたのです」と答えた。戒賢法師もその話を聞いて、彼にも講義を聞かせた。15か月後に講義が終わると、戒賢は人を遣わしてバラモンを連れ、戒日王(かいにちおう)のもとに送らせた。王は奇特(きとく)な人物であるとして、彼に三邑(さんゆう)の封土(ほうど)を与えたという。
玄奘はナーランダー寺で『瑜伽』を聞くこと3遍、『順正理論』は1遍、『顕揚』『対法』おのおの1遍、『因明』『声明』『集量』などの論はおのおの2遍、『中』『百』の2論はおのおの3遍ずつ聴講した。『倶舎』『婆娑』『六足阿毘曇』などは、既にカシュミーラ諸国で聴講したことがあったので、これらの経典は疑問の点だけを尋ねるだけでよかった。
玄奘はさらにバラモンの書も学んだ。インドのブラーフマンの書は『記論』と言われる。その起源と作者は知られていない。これらの書はおのおの劫の初めにブラーフマンが天人に伝授したもので、ブラーフマンの説くところなので「梵書」という。その言は極めて広く百万頌
(じゅ)もあり、旧約に『毘伽羅論』というものがこれである。しかし、その音は正しくはない。正しくは『ヴァーカラナ』というべきである。その意味は『声明記論』である。広くもろもろの語法を細かく明らかにしているので『声明記論』というのである。
―以下、略す―
玄奘は皆その言語に精通し、インドの人と聖典を自由に論じ合えるようになった。このようにして諸部を研鑽
(けんさん)し、並びに梵書を学んでおよそ5年の歳月を経たのであった。
[註]
【瑜伽論】
(ゆがろん)
【順正理論】(じゅんしょうりろん)
【顕揚】
顕揚聖教論頌の略。
【対法】阿毘達磨の訳。
【因明】
(いんみょう)
【声明】
(しょうみょう)
【集量】
(しゅうりょう)
【中】
(ちゅう)中論。
【百】
(ひゃく)百論。
【倶舎】
(くしゃ)倶舎論。
【婆娑】
(しゃば)毘婆沙論。
【六足阿毘曇】
(ろくそくあびどん)


カポータ伽藍
ナーランダー寺からまたイーリナバルヴァタ国に赴き、途中カポータ伽藍に到った。
伽藍の南2~3里に孤立した山があり、岩峰
(がんぽう)は高くそそり立ち、潅木(かんぼく)は緑深く泉や沼はあくまでも澄み、美しい花が馥郁(ふくいく)としていて絶勝の地である。ここには霊廟(れいびょう)が極めて多く、しかも数々の神変(しんぺん)奇異(きい)が見られる。
この山の真ん中の寺に白檀
(びゃくだん)を彫刻した観自在(かんじざい)菩薩像があって、霊験(れいげん)特にあらたかである。常に数十人の人が周りにいて、あるいは7日、14日と食事や飲水を断って、もろもろの祈願をする。心から熱心に祈った者には、菩薩像の中から菩薩が具相荘厳(ぐそうしょうごん)を整え、威光を輝かせて現れ、その人を慰めとして願望を叶えてあげるという。このように霊験を得た人が少なくないので、この仏像に帰依(きえ)する人もますます多かった。そこで、この仏像を供養する人は、参詣人が尊像を汚すことを恐れ、像の四方7歩ばかりに木の手すりを立てた。そこで、ここへ来て礼拝する人は皆手すりの外で拝するようになり、像に近づくことができなくなった。像に捧げる香花も共に柵外から投げられるだけである。そこで人々は、その花が菩薩の手や肘に架けることができれば吉兆(きっちょう)で、願いごとが叶うとしていた。
玄奘もここへ来てこの像に祈願しようとし、色々な花を買って花輪を作り、像の前へ行って真心込めて礼讃し、菩薩に向かって次の3つの願を懸けた。「一つにはこの地で学び終わって本国へ帰る途中、旅が平安で無事であれば、どうか花よ、尊像の手に留まってください。二つには私の修め得た福慧
(ふくえ)によって、いつかは忉利天(とうりてん)に生まれ慈氏(じし)菩薩に仕(つか)えさせてください。もしこの願いが叶えられるならば、どうか花よ、尊像の両肘に掛かってください。三つには聖教(しょうぎょう)によると、衆生の内には一分の仏性(ぶっしょう)もない者があるとのこと。私は今自ら仏性が有るか無いか分りません。もし私に仏性があり、修行して仏となり得るならば、何卒この花を尊像の御首に掛けさせたまえ」。こう祈って遥か此方(こなた)から花を投げたところ、皆願った通りになった。玄奘は願うところが悉く叶い、大いに喜んだ。参拝に一緒に来た人や精舎を守る人々も、これを見て足を鳴らし指を弾いて、「これほどのことはまだあった例がない。将来もし成道されたならば、どうか今日の因縁を思い出され、まず私たちを度(ど)してください」と言った。
[註]
【イーリナバルヴァタ国】伊爛拏鉢伐多国。首都を今のパトナ東方約150㎞のモンギールに比定している。
【カポータ伽藍】迦布熟伽藍。


イーリナバルヴァタ国
それからようやく出発してイーリナパルヴァタ国に行った。
ここは伽藍10か所、僧侶が4000余人おり、多くは小乗の説一切有部
(いっさいうぶ)を学んでいた。近頃隣国の王がこの国の王を廃して王城を僧に施し、中に2つの寺を建て、そこにはおのおの1000人の僧がいた。これらの中に2人の大徳(たいとく)がおり、一人はタターガタグプタ、もう一人はクシャンティシムハという。共に薩婆多部(さつばたぶ)に通じている。そこで玄奘はここに滞在すること1年、二人について『毘婆娑』『順正理』などを読んだ。
この国の大城の南にストゥーパがあり、ここは昔釈尊が3か月の間、天人
(てんにん)のために説法した所であるという。その側にまた過去四仏の遺跡があった。この国の西界(せいかい)、ガンガー河の南岸に小さな山があり、ここは昔釈尊が3か月安居(あんご)してヴァックラ薬叉(やしゃ)を降された所である。山の東南の巌下の大石上に釈尊の座られた跡がある。長さ5尺2寸、広さ4尺1寸で、深さ1寸余りである。また釈尊がクンディカーを置かれた跡があり、深さ寸余で8つの花文が作られている。この国の南界のジャングルには、多くの大象がおり、大きく元気のいい巨象である。
[註]
【イーリナバルヴァタ国】
伊爛拏鉢伐多国。首都を今のパトナ東方約150㎞のモンギールに比定している。
【タターガタグプタ】怛他掲多毱多。これは如来密という。
【クシャンティシムハ】羼底僧訶。これは獅子忍という。
【ヴァックラ薬叉】(やしゃ)簿句羅。
【クンディカー】桾稚迦。水瓶すなわち澡缶(そうかん)である。旧に軍持。