文/『浄土真宗必携』 画/「日本放送協会」出版物、他
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カピラバットウ遺跡 |
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ルンビニー遺跡 |
ところは北インド、はるかにヒマラヤの銀嶺をのぞむ高原に釈迦族とよばれる気品と勇気をそなえた種族がカピラ城(カピラバッツ)を中心に小さな国をつくっていました。
城主は浄飯王(スッドーダナ)といいましたが、その妃マーヤ―は出産のために里帰りの途上にありました。春の遅い北インドで、一時に咲いた様々な花が野山を彩っていましたが、途中にあるルンビニーの花園の美しさは人々の目を奪うほどでありました。
時は、紀元前5世紀の半ば、4月8日のことです。マーヤ―夫人の一行は、しばらくこの庭園で休息することになりました。夫人がやおら立って、無憂華の一枝を手にしようとした時、すばらしい王子が誕生されたのです。その名はシッダッタ(悉達多)とつけられました。経典の伝えるところによれば、シッダッタは生まれるとすぐ7歩歩いて天土地を指さし、「天上天下、唯我独尊、三界は苦なり、われまさにこれを安んずべし」と高らかに叫ばれ、天は感動して甘露の雨を降らしたといいます。
だれも、自分の生まれた時のことを記憶している人はいません。ものごころついてから、それを言い聞かせるのは母親ですが、マーヤ―夫人は産後7日目に亡くなり、シッダッタは母の口から自分の出生の時の様子を聞くことはできませんでした。誕生についての様々な奇瑞は、あるいは後の仏伝編集の時に創作されたものかもしれませんが、それにしても、この偉大な聖者の誕生を語るにはまことにふさわしい物語と言えましょう。
6歩は迷いの六道を表わし、7歩歩まれたとは既に迷いの世界を過ぎ、人々を救う仏の出現であったことを象徴しているのです。その誕生日である4月8日は「花まつり」として祝われております。
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苦行像 |
王子シッダッタは学問にも武芸にも早くから抜群の力量を表わし、父王や国民の希望を一身に担っていました。少年の頃、小鳥についばまれた虫がもがき苦しむ様を見られ、さらにその小鳥が鷹に襲われて餌になるという、生きているものが相互に殺し合い食い合う姿を見て、深く物思いに沈まれたといいます。こうした多感なシッダッタ太子の心を引き立たせようと、父の浄飯王は華やかな王宮の生活を準備し、成人すると美しいヤソーダラーを妃に迎えました。
ある時、太子は城外の視察を思い立ち、カピラ城の東門から出た時、一人の痩せ衰えた老人を見て、「自分もこのように老いてゆかねばならないのか」と心を暗くしました。また、南の門から出た時病に苦しむ人に出会い、西の門から出た時は悲しい葬列に行き合い、人生が常なく苦しみであることを知りました。最後に北の門から出た時、そこで一人の修行者に出会いました。その気高い姿に、シッダッタ太子の心は強く打たれ、出家の決意を決められたと伝えられています。
やがて、ヤソーダラー妃との間に王子が生まれた時、「わが求道のための妨げができた」とつぶやかれましたので、子はラーフラと名づけられました。しかし、道を求めようとする思いはいよいよ募り、29歳の時、王子の地位も家族への愛着も振り切って、ついに修行者多たちの仲間に入られたのであります。
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降魔の攻撃 |
今は王服を捨てて一修行者となったシッダッタは一路南に下ってマガダ国の首都である王舎城(ラージャガハ)の森に行かれました。広漠として続く平坦なインド平原の中で、ここだけは山脈が走り、古い火口原に位置する王舎城には新興国の活気があふれており、これにひかれてインドの各地から自由な思想家たちが集まっておりました。シッダッタは、その教師たちを歴訪しては教えを請いましたが、どの教説も満足できるものではないことがわかったので、一人で真理を求めようとウルベーラ村の苦行林に赴き、徹底した苦行に入りました。時には一粒の米で一日を過ごし、あるいは全く食を絶たれることもありました。一時は倒れて意識もなく、死亡の誤報が父王のもとに届いたことさえありました。
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ブッダガヤー遺跡(金剛座と菩提樹) |
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ブッダガヤー遺跡(大塔) |
苦行を続けること6年、身も心も衰えるばかりで、これではとても悟りに達することはできないと知り、山を下って尼蓮禅河(ネーランジャラー河)でその身を清め、村長の娘スジャータの供養した乳粥で体力を回復されました。新たな勇気を奮い起こしたシッダッタはガヤ市の郊外の、とある大きな菩提樹の下に坐し、悟りを開くまでは決してこの座より立つまいと誓い、瞑想に入られたのです。それを見て、それまで苦行を共にした5人の修行者は、シッダッタは堕落したものと思い、見捨てて立ち去ってしまいました。
シッダッタの成道の時が近づくと魔王が現れ、空中から炎をあげた剣を持て脅迫し、あるいはまた、なまめかしい美女となって誘惑し、成道を妨げようとしました。けれども、魔王の姿で現れた外からの脅威にも、内からの煩悩にも打ち勝って、12月8日、暁の明星がひときわ強く瞬く時、老病死の苦悩の根源である無明を打ち破って、真実の智慧を得られたのでした。この時35歳でしたが、それ以来シッダッタは釈迦牟尼世尊(釈迦族の聖者の意、略して釈尊という)とも、仏陀(覚れるものの意)とも呼ばれるようになりました。「人は生によって聖者であるのではない。その行為によって聖者となるのである」と、後に釈尊は述べておられます。今、私たちがこのシッダッタを釈迦牟尼世尊と仰ぐのは、その悟りの内容と行為の尊さによるからであります。
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初転法輪像 |
釈尊は成道の後もしばらく菩提樹のもとに坐って悟りの喜びをかみしめておられました。たった一つの原理を発見しても、その喜びに躍り上がって、裸で街を走った学者が西洋にはあったといいます。まして釈尊の場合、万法が明らかになったのですから、その喜びはいかばかりか大きかったことでしょう。もともと、釈尊は慈愛と威厳に満ちた容姿端麗な方でありましたが、この喜びにあふれた尊い姿を後世の芸術家たちは、あるいは光明で表わし、また三十二相などの仏像彫刻の類型によって表わすようになったのであります。
やがて釈尊は、この喜びを人々に伝えようと座を立たれ、まず対象として、これまで苦行を共にしてきた5人の修行者を選ばれました。彼らはガヤから200km以上も離れたベナレス郊外の鹿野苑(ミガダーヤ)で、相変わらず苦行を続けておりました。釈尊はそのあとを追って道を急がれましたが、5人はその姿を見て「道を捨てた者の言葉は決して聞くまい」と申し合わせました。けれども、自信に満ちた釈尊の説法にしだいに耳を傾け、ついにその最初の弟子となりました。この歴史的な説法を初転法輪といいます。ここに初めて仏・法・僧の三宝がそろったのです。
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舎衛城遺跡 |
ここで「僧」とは僧伽(サンガ)の略で、釈尊を中心とした弟子たちの集団をいうのです。釈尊は、僧伽にインドの社会に根強く力を持っていた身分の階級制度を持ち込まぬよう、特に気を配られましたので、すべての人は平等に和合してゆきました。
釈尊は時と相手に応じて真実の法を巧みに説法しながら伝道の旅を続けられました。ある時はマガダ国の王舎城に、あるいは舎衛国の祇園精舎に、またある時は貧しい信者の家を訪れて教化を続けて行かれたので、釈尊を心の師と仰ぐものはあらゆる階級に及び、国境を超えた教団ができあがっていきました。偉大な先覚者や天才は、概して世に受け入れられず、悲劇の生涯を送ることが多いのですが、釈尊の場合は例外でした。時には敵となった人もありましたが、その憎しみも、釈尊の円満な人柄の前に自然に和らぎ、いつしか帰依者に変わっていくのが常でした。
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祇園精舎遺跡 |
中でも最大の事件は、釈尊の従弟にあたる提婆達多(デーバダッタ)が、釈尊に代わって教団の主導権を握ろうとして反逆したことです。提婆は、マガダ国の阿闍世太子(アジャーサッタ)をそそのかし、その父頻婆娑羅(ビンビサーラ)を殺させ、韋提希夫人(べーデーヒー)を幽閉し、国の実権を握らせて、その力を借りて精神界の王者となろうとしたのです。しかも、その企みも失敗し、かえってどれが機縁となって、釈尊が『観無量寿経』を説かれ、尊い念仏の教えが世に現れるもとともなりました。
こうして釈尊は生涯たゆまず法輪を転じていかれたのです。
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クシーナガラ遺跡 |
80歳の高齢となられても、釈尊はなおもたゆまず王舎城よりベーサーリを経由して伝道の旅を続けておられました。この旅は途中で終わりました。目指すところは王舎城の祇園精舎であったと記されていますが、あるいは故郷のカピラ城でもあったでしょうか。釈尊はこの旅の途中で病気になられました。
病が回復に向かった時、常にお側に仕えていたアーナンダは勇気を出してお尋ねしました。「世尊よ、一時はこのままおかくれになるのではないかと私は心痛いたしました。しかし、まだ弟子たちの中から教団の統率者を選び、彼に秘伝を託されることもないので、お隠れになることはあるまいと安心していました」。このアーナンダの言葉をたしなめて、「アーナンダよ、今さら私に何を期待すると言うのか。私は既に悉く真理の法を解き明かしてきたではないか。アーナンダよ、如来の教法に隠しておかねばならぬ秘伝というものはないのである」。そうして、釈尊は次のように示されたのであります。「自らを灯とし、自らを拠り所として、他を拠り所としてはならない。法を灯とし、法を拠り所として、他を拠り所としてはならない」。
その後、旅を続けられた釈尊は、その途中で再び病に罹られました。この偉大な教主、釈尊といえども、諸行無常の法を逃れることはできません。やがてクシナーラの沙羅双樹の下に横になり、最後の説法の後、静かに息を引き取られました。「弟子たちよ、諸行は無常である。怠りなく努めねばならない」。これが最後のお言葉でした。
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涅槃図(東福寺蔵) |