阿弥陀経の十六羅漢と釈迦十大弟子

阿弥陀経の十六羅漢

アーナンダ(阿難陀・阿難)
() 侍者、阿難陀
お経の随所に出てくるのが阿難陀であるが、それとペアで出てくる長老は舎利弗である。目連は多くて二つか三つ。現代企業なら阿難陀が秘書課長、舎利弗が総務部長という役回りだろか。阿難陀または阿難は、釈迦族の出身で、インド名はアーナンダ。父親は浄飯王の弟の甘露飯王だから、お釈迦さまの従弟に当り、年齢は20歳から30歳くらい若いと考えられている。お釈迦さまに反逆したために「仏教のユダ」とも呼ばれる提婆達多と兄弟という説も一部にある。
彼も提婆達多も、お釈迦さまが何度目かの帰国をされた時に、後を追った7人の若者の中におり、この時彼に「出家しよう」と誘ったのは阿那律であった。
阿難陀がお釈迦さまの侍者に決まった経緯については、例えば『中阿含経』などに次のように記されている。

お釈迦さまが55歳の時とも言われるが、多くの長老達が居合わせた場所で、「私ももう年老いて体も弱った。侍者を選んで欲しい」と告げられた。それまでお釈迦さまには定まった侍者はいなかったようである。そこで、最初に悟りを開いたといわれる憍陳如(キョウ・チンニョ)を初め何人もが名乗り出たが、お釈迦さまはどの人も、自分より年長であるとか、その他様々な理由で退けられた。そこで目連は得意の神通力でお釈迦さまの心中を探り、望まれているのは阿難陀だと知った。ところが、目連の要請に対して阿難陀は固辞して受けない。お釈迦さまの身辺の世話をし、教えを説かれた時はその言葉を一語一句記憶にとどめておく。そのような重要なことは、若輩の自分にはできない。任ではないと言い張った。そこを二度三度説得した末、とうとう阿難陀は侍者上の特権を拒否する三つの条件を示し、「これが叶えられるなら、不束ながらお受けします」と言った。
第一の条件は、古い新しいを問わず、お釈迦さまの着用された衣類をいただかないこと。理由は、多くの比丘たちから嫉妬されるのを避けるためである。二は、お釈迦さまが食の供養を受けられる時、その鉢の残りを戴かないこと。理由は、お釈迦さまに供養される食は美味ばかりであり、それを戴くと、阿難陀は美食を求めて侍者になったと言われかねないからである。三は、自分の都合でお釈迦さまにお会いしないことである。理由は、自分がそうすると、外道の者や比丘たちが、好き勝手な時にお釈迦さまに会いたいと訪れても断りきれないからである。
お釈迦さまはこの三条件を快く是認され、阿難は専属の侍者となった。以来25年、影が形に添うようにお釈迦さまの身近に侍り、献身的に仕えた。あらゆる説法を全神経を集中して耳に収め、片言隻語も逃すまいと記憶した。その入魂振りは、ある時、彼の背中に大きな腫れ物ができて高熱と痛みを伴い、切開して治療しなければならなくなった。医師の耆婆が手術を行った時もなお、彼は説法を聴聞していたと伝えられているほどである。通常なら大きな痛みを伴う手術であったが、彼は何一つ感ずることなく、切開されていることすら知らぬままに終えた。それほど無我夢中の精神集中振りであったとお経に記されている。

()阿難陀の言行
お経の中には本当に様々な阿難陀がいる。
雷雨の夜にお釈迦さまに傘を差しかけながら歩く姿や、晩年のお釈迦さまの足を擦る姿もあるが、そういういかにも侍者らしい姿の外に、お釈迦さまと弟子たちの間ではらはらしたり、病気で苦しんでいる比丘がいると聞くと、お釈迦さまに見舞いに行って欲しいと願い出たり、誰かが弟子としてあるまじき行為をするたびに、お釈迦さまのお説教のために比丘たちを一堂に集めたり、時には他人のことで代わって叱られたりしている阿難陀がいる。
          
ある朝、阿難陀は托鉢の後、祇園精舎に来たところで、この国のパセーナディ王が象に乗り、城門を出るところに出会った。彼は王に道を譲って樹下に身を潜めたが、王は目ざとく彼を見つけ、川のほとりに行こうと誘った。そこで阿難陀は王のために、お釈迦さまを例にして身の持し方を説いた。
「世尊は、行者や世間の人が嫌悪する行為を行われ  ない。行えば自らを害うばかりか、他をも傷つけ良き智慧を失わせて、良き涅槃に導かないからである。身口意でなす業を慎むのは、欲望と怒りと愚かなことから離れ、正しいこと、善きことだけを行って、善き生を送ろうとするためである」と。
王は阿難陀のこの教えを聞いて喜び、彼が財宝を受け取らないのを知っていたので、マガダ国から贈られて来た衣を布施した。後に阿難陀がこのことをお釈迦さまに報告すると、師は「良き教えを説いた」と彼を賞賛された。(中阿含経)
          
コーサラ国のパセーナディ王は、王宮の女性たちにもお釈迦さまの教えを説いて欲しいと思い、お釈迦さまはその役割を阿難陀に命じられた。彼は、しばしば王宮で教えを説いていたが、ある日のこと、阿難陀が早朝に王宮に赴くと、王とマリッカー王妃はまだ寝所にいた。それなのに、彼は何も告げずに入ったので、王妃は驚いて着衣を落としたという。その場から立ち去った阿難陀はこれを比丘等に告げ、比丘等は彼を非難してお釈迦さまに告げた。
お釈迦さまは彼を叱責し、比丘たちに「王の後宮に入れば十の過失がある」と述べられて、予告せずに王の寝室に入れば波逸提と突入王宮戒を制定された。(南伝大蔵経『律蔵』)
          
お釈迦さまの一行が東園鹿子母講堂にいた時、お釈迦さまが大迦葉に説法をすることを勧められた。ところが、彼は「今、阿難陀の弟子の槃稠(ハンチュウ)と目連の弟子の阿毘浮(アビフ)が、どちらが多聞であるか争っている。だから法を説くことができない」と断った。そこで、阿難陀は自分の弟子を庇おうとすると、「党派を作るな」と大迦葉に注意された。お釈迦さまは二人を呼んで教誡され、両人が懺悔した後、大迦葉は説法をした。(増阿含経)
          
ある朝、盲目の長老阿那律が舎衛城で托鉢をしていると、ちょうどそこに阿難陀も托鉢に訪れた。阿那律は良い時に出会ったと思い、「衣が破れて不自由しているので、比丘たちに頼んで衣を縫ってもらえないか」と彼に依頼した。阿難陀は快くその願いを聞き入れ、比丘たちの房舎を回って、阿那律の衣を縫う手伝いをして欲しいと頼んだ。
お釈迦さまがこのことを知って、「どうして私には頼まないのか」と問われた。阿難陀は「忙しいお釈迦さまにそんな雑事はお願いできない」と述べたが、お釈迦さまは「そんなことはない、大事なことだよ」と、阿難陀と共に阿那律のいる山中に向われた。他の比丘たちも、お釈迦さまが率先して針を持たれるということで、我れも我れもと手伝い、阿難陀は三組の衣を仕上げることができたとされている。(中阿含経)
          
ある時、阿難陀はスダッタ長者が病気に罹ったと知り、舎利弗と共に見舞いに行った。そして舎利弗は、「五蘊と十二処と四大に執着しないように」と説き、阿難陀は「恐れることなかれ、仏と法と僧を信ずることなく、戒を守らないから恐怖心が起きるのである。だから三宝と戒とを固く信ずれば怖いものはない」と説いた。長者は感涙に咽びながら「初めて王舎城でお釈迦さまの姿を拝見してから20年になるが、これほど有り難い説法を聞いたことはなかった」と感謝したと言われる。(増阿含経)
(五蘊:心身)
(十二処:眼、耳など六つの器官とその対象)
(四大:地、水、火、風)
          
ある時、阿難陀は閑静なところに居て「衆生は愛欲の想を起こして、長夜にこれを習い、満足することがない」という思いが生じた。お釈迦さまにお目にかかった時に、このことについて質問すると、「実は私も前世に於いて、帝釈天を倒して諸天の王になろうという欲を起こしたことがあった」と前置きされてから、「貪りの心と淫らな心は時雨の如く、欲において飽きることはない」と噛んで含めるように諭された。(増一阿含経)
          
阿難陀は、ある時ふっと考えた。順風にも逆風にも香る香りはあるだろうかと。お釈迦さまに会った時にこれを尋ねると、こう答えられた。「根香、茎香、華香は順風のみ香るが、戒の香り、説法聴聞の香り、布施の香りは順風香、逆風香、逆順風香である。この三種の香りはちょうど牛乳から酪(発酵乳)ができ、酪から酥(そ・ヨーグルトの一種)ができ、酥から醍醐(チーズ)ができて、しかも醍醐が最上で他に等しいものがないように、いずれも最高最上である。木蜜、栴檀などの諸香があるが、戒香、聞香、施香は第一である」と。(増一阿含経)
          
ある時、コーサンビー国に赴いた阿難陀はウデーナ王の花園の辺りで王の侍女たちに法を説き、教えに感動した侍女等は阿難陀に500枚の衣を布施して王の元に帰った。これを聞いて、王は500枚という余りの多さに驚き、それを平然と受け取った阿難陀の真意を質そうと、彼の許にやって来た。
「阿難陀尊者よ、かくの如き多くの法衣を何にお使いになるのか。」
「大王よ、衣が古くなり、傷んだ物を着ている比丘たちに分かち与えるのです。」
「では、その古い法衣は。」
「大王よ、それは上覆として用いるのです。」
「では、その古い上覆は。」
「大王よ、それはよく洗ってベッドカバーにします。」
「ではその古いベッドカバーは」
「大王よ、地上の敷き具に用います。」
「では、その古い地上の敷き具は。」
「大王よ、足拭きの布に作り直して用います。」
「では、その古い足拭きの布は。」
「大王よ、雑巾にして使います。」
「では、その古い雑巾は。」
「大王よ、これを能く叩いて、泥に混ぜて、地床を塗るのに使います。」
これを聞いたウデーナ王は、お釈迦さまの弟子たちが全ての物の命を尊び、最後まで生かして使い切ることに深い感動を覚え、さらに500枚の布を布施されたと伝えられている。
          
お釈迦さまの教団の中でも美男子で聞え、かつ心優しく、後に比丘尼集団が設立されてからは、比丘尼たちにも慕われた阿難陀である。いくつかのロマンスがあっても不思議ではない。その中に、村娘プラクリティから求婚された物語がある。
ある夏の日のこと、阿難陀はカースト制度の不当に厳しかった当時、四姓の最下位のシュードラよりもさらに下に見られていたマータンガ族の住む町を歩いていた。たまたまその村の井戸で一人の娘が水を汲んでいるのを見た彼は、その娘に一杯の水の供養を求めた。ところが、彼女は「自分は身分が卑しく、水を差し上げる資格がありません」とそれを拒んだ。阿難陀は「私はお釈迦さまの弟子であり、世尊は人間には生れながらにしての身分の上下はないと教えています」と言い、再度水を望んで、差し出された一椀の水を飲んだ。冷たく甘い水であった。
これだけのことであったが、その村娘の心に深い恋慕の情が宿った。彼女は魔術を得意とする母親に頼んで、一度は阿難陀を我が元に誘い寄せるのに成功した。しかし、ふらふらと彷徨い出た阿難陀は、この時フッと正気に戻って、必死にお釈迦さまに救いを求め、危険を察知したお釈迦さまの神通力によって、阿難陀は彼女の魔法から逃れて事なきを得た。
しかし、その翌日からプラクリティはきれいに化粧して、托鉢する阿難陀の後につきまとい、「この人は私の夫です」と言って譲らなかった。困り果てた阿難陀はお釈迦さまに相談し、お釈迦さまはこの娘を呼び寄せて、諄々と人間の愛欲の煩わしさと不浄であることを説かれた。これによりプラクリティは出家し、良き比丘尼として尼僧院で暮らしたと伝えられている。
          
尼僧院の成立に力を貸したのは、他ならぬ阿難陀であった。
お釈迦さまの教団に、最初は女性の修行者はいなかった。女性の立場は常に受身である。厳しい戒律を守り続けることは女性にとって至難なことであると、お釈迦さまは長い間女性の出家を許されなかった。
また、お釈迦さま自身、決して男尊女卑の観念に凝り固まった人ではなかったが、「小児は泣くことを力とし、女性は嫉妬を力とし」とお経で述べられているように、一度は結婚経験のある男性らしい女性観を持たれていたように思われる。だから、育ての親マハーパジャーパティーから、お釈迦さまの父である夫の浄飯王の死後、何度か出家したいという嘆願があった時も、首を縦にされなかった。
それがある日、お釈迦さまがおられたヴァイシャーリーの街に、裸足の足から血を流し、飢えと疲労とで立つことも叶わぬようなみじめな姿の女性たちが辿り着いた。自らの手で髪を切り落とし、比丘に似た姿をして、500㎞の道を遥々と辿り着いたカピラ城の女性たちであった。養母マハーパジャーパティも、かつては妃だったヤショーダラーも、阿難陀の母の姿もその中にあった。阿難陀が、お釈迦さまの言葉に逆らったのは、後にも先にも、この時一回だった。「どうしても許さない」と言うお釈迦さまに阿難陀が必死に食い下がり、反論して、漸く女性にも悟りを得る能力が備わっていることをお釈迦さまに理詰めで認めてもらったのであった。
マハーパジャーパティーをリーダーとする女性比丘尼集団の成立は、お釈迦さまの成道後20年ぐらい後のことと聞いている。また、お釈迦さまは、その際、女性の出家者のために「八敬法」を制定され、その第一に「比丘尼はどんなに入信して間もない比丘も先輩として敬わなければならない」と定められたという。
          
お釈迦さまの最後の旅は80歳の時と推定されているが、先ずマガタ国の霊鷲山を出て道を北に取られた。そして、ナーランダ、パータリ村を過ぎ、満水のガンジス川を渡ってヴァッジ国に入り、お釈迦さまが愛されたヴァイシャーリー市を通り、マッラ国のパーヴァー市に入られた。ここで鍛冶屋のチュンダのキノコの供養を受け、激しい下痢に見舞われた。最後の地となったのはクシーナガルのサーラーの樹林である。この間、どの程度の弟子たちが同行していたか、お経には語られていない。ほとんど阿難陀一人を連れて、老いの道を庇い庇いの旅というのが史実に近いと考えられている。
お釈迦さまが涅槃の林に赴こうとされた時、マッラ国の商人フックサという人が、お釈迦さまの余りにも泰然自若とした瞑想の姿に打たれ、それまでアーラーラ・カーラーマ仙人に寄せていた帰依の心を捨てて、お釈迦さまと法と教団に帰依した。そして敬仰の心を形に示すために柔らかな金色の絹を二枚供養した。その時、お釈迦さまは「一枚目は自分が戴こう。一枚は是非阿難に」と仰った。「阿難陀は25年間、蔭日向なく私に仕えてくれ、病める時も変わらずに尽くしてくれたから」と。
          
お釈迦さまの涅槃図には、そのどれにも身悶えして嘆き悲しむ阿難陀の姿がある。お釈迦さまは最後の間際に阿難に告げられた。
「阿難陀よ、悲しんではいけない。私が涅槃に入れば、そなたは、これでもう師の言葉は終わった、自分は最早師がないと思うであろう。そうではない。阿難陀よ、私の亡き後は、私の説いた法と律とが弟子たちの師である。それを忘れてはならない。このことを常の如くに記憶して、弟子たちに正しく伝えよ」と。
さらにお釈迦さまは、「これから後、皆が希望するならば、細かい戒の項目は廃しても良い」と告げられたと言うが、3ヵ月後の第一結集で、「その時なぜもっとはっきりと、どれとどれを廃して良いのか、お釈迦さまに聞かなかったのか」と、阿難陀は長老たちから叱責されている。

()お釈迦さま入滅後の阿難陀
お釈迦さまの入滅後の阿難陀は心身ともに疲労困憊していた。祇園精舎にいる時、トーデッヤの息子の若いバラモンが「阿難陀に会いたい」と申し入れたが、彼は「今、薬を飲んだばかりなので、今日は勘弁して欲しい。明日なら行ける」と答えた。彼は翌日チエータカ比丘を従えて、このバラモンの許を訪れ、「世尊は戒と定と慧を賞賛され、人々をこの教えによって導かれた」と説いた。彼はこれを聞いて在家の信者になったと言われている。
また、お釈迦さまが亡くなられてからしばらくの間、世間の思惑は、誰がお釈迦さまの後を継ぐのかという一事に絞られていた。ある朝、阿難陀の知り合いのバラモンが、「阿難陀よ、世尊が亡くなられた後に、誰か世尊に等しいような立派なお方がおられるのか」と問いかけてきた。阿難陀は答えた、「バラモンよ、そんな立派な方がいる道理はないではないか。なぜならば、世尊は自らこの道を悟り、自らこの道を実践した方であって、弟子たちはひたすら世尊を敬慕し、その教えと垂範についてきただけである」、そして重ねて言った「我等に決して依り所がないのではない。我等には依り所がある。法と律とが我等の依り所である」と。

()第一結集
釈尊の入滅後ほどなくして、悟りを得た阿羅漢によって依り所となる法と律を定める第一結集が開かれようとした時、阿難陀はまだ悟りを得ていなかった。ある時、解脱したという思いだけは得ていた。「私は内外のことに対して、自分がどうとか、自分のものであるとか、自己中心的に思わず、執着せず、こだわらず、慢心や煩悩がなく、解脱した」という確信を抱いたことがあり、そのことを祇園精舎におられたお釈迦さまに告げたことがあった。しかし、真の悟りにはまだ達していなかった。
お釈迦さまの侍者を25年間務めた、多聞第一の彼なくして充分に第一結集ができるのかどうか、それは残された教団にも大きな問題だった。阿難陀は、その前夜、霊鷲山に独り座って深く瞑想した。そして、これからはお釈迦さまという実体に寄り添う影という自分から脱し、自立した存在にならねばと強く思った。阿難陀は、その夜一瞬にして悟り、一座の阿羅漢500人の最後に列した。
第一結集の日、阿難陀は全脳細胞に刻み込んだお釈迦さまの教えを「如是我聞」と誦出し、全員がその言葉を是とした時、今日に至る経典の基ができた。これで我が心の依り所ができたと、誰よりも嬉しかったのは阿難陀自身であった。大迦葉が年老いて亡くなった後、お釈迦さまの教団の全指導者となったのはこの阿難陀であり、120歳まで休むことなく教えを説き続けたとされる。(中村晋也)