チュッラパンタカ(周利槃特)は王舎城の長者の娘と召使いの間に生れた。長者の娘は下男と駆け落ちしたが、身ごもったので父母の許で出産したいと思って夫に相談したところ、夫は罰を恐れて腰を上げようとしなかった。臨月が近づいたので長者の娘は一人で王舎城に帰ろうとし、途中で男の子を生んだ。道路で生れたことによってこの子はパンタカ(道路)と名づけられた。二番目の子も同じように、彼女が実家に帰る途中で生れた。そこで、最初の子をマハーパンタカ(大道路)、次の子をチュッラパンタカ(小道路)と名づけた。
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チュッラパンタカは、兄のマハーパンタカが非常に賢かったのに対し、生まれつき愚鈍であった。兄に従って仏弟子となったが、
かぐわしい香りの真紅の蓮華が
暁に花開いて香るように
あまねく照らす仏陀を見よ
空に輝く太陽のように
という一句を4ヶ月かかっても暗記することができなかった。
何とかして彼を一人前の修行僧にしてやろうとした兄のマハーパンタカも、遂に我慢しきれなくなって愚鈍な弟を精舎から追い返してしまった。途方に暮れているチュッラパンタカに気づいたのは、仏陀その人であった。「チュッラパンタカよ、お前は今頃何処へ行くのか」。仏陀にこのように尋ねられて、チュッラパンタカが兄に見放されたことを語ると、仏陀は「チュッラパンタカよ、お前は私について出家したのだ。兄に追われたのなら、どうして私の所へ来ないのか。さあ、私の所に来るが良い」と言って精舎に連れ帰り、自分の部屋の前に座らせて一枚の布を与え、次のように教えた。「チュッラパンタカよ、ここに居て東の方に向かい〈塵、垢を除け。塵、垢を除け〉と言ってこの布で撫でなさい」。
チュッラパンタカは言われた通り、そこに座って太陽を仰ぎ見ながら「塵、垢を除け。塵、垢を除け」と言って、その布を撫で続けた。このようにする内に、彼が手に持っている布はすっかり汚れてしまった。この布を見ながら「この布は仏陀から手渡された時は、手垢もなく真っ白だった。それなのに、私のためにこんなに汚れてしまった。諸行は無常であるとは、こういうことを言うのであろうと」思った。
このようは彼の心の動きを知った仏陀は、すかさず、「チュッラパンタカよ、この布だけが塵や垢に染まったものと思ってはならない。人間の心の中にある塵や垢を除き取ることが重要なのだ。」と説き聞かせた。
さすがのチュッラパンタカも仏陀の教えようとしていることが良く分かり、やがて阿羅漢と呼ばれる聖者の位に登った。生来の愚鈍と言われたチュッラパンタカは一度聖者の位に登ってからは、多くの神通力を示したという。
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北伝のある『論書』では仏陀はチュッラパンタカに来客の履物の汚れを払わせ、中々汚れが落ちないのを見せて、心の汚れ(煩悩)を清めることがどれほど難しいかを理解させたと記している。
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ここで仏陀が言いたかったのは、人の心の一途さこそ、その人を悟りに向わせる原動力であるということではないだろうか。彼は仏陀を信じ、何の疑いもなく言われたままに布を撫でた。その一途な行動がチュッラパンタカ自身の内に悟りに向う心を発動させることになったのである。
世に、どんなことをしても落ち着かず、次から次へと目先を変えていく人がいる。そのことを思うと、「チュッラパンタカは本当に愚鈍であったのだろうか」という疑いが湧く。仏陀に教えられた言葉の通りに、一途に塵を払うことに努めるという行動が、どうして愚鈍な者にできるであろうか。
仏教はひたむきさ、誠実さ、優しさは智慧の働きだとする立場に立っている。愚鈍とは何か、本当の懸命さとは何かを根本的に問いかける話である。(菅沼晃)