(一) 迦旃延の出家
迦旃延のインド名はカッチャーナあるいはカッチャーヤナ。その当時、十六大国に数えられたアヴァンティ国の首都ヴェッジェニー(現ウッジャイン)の出身とされている。父親は王の補佐役であったと言われるから、彼も育ちの良い青年だったろう。ノーブルな顔立ちで黄金色の美しい肌をしていたと伝わっている。
彼は、この国の王がお釈迦さまの教えの話を耳にし、是非自国に招きたい、適わぬならば教えの概略でも知りたいと派遣した使者の一人であった。後に彼は帰国してこの王に法を説き帰依させたと言うが、実は、遥々彼を派遣した王こそ、当初から本当の信者であったと言って良い気がする。一説には悪王であったというが、その王こそ真に英邁であり視野が広い。逆に迦旃延サイドから考えると、一度は王の使者として来てはみたものの、お釈迦さまの魅力に惹かれ、出家しまったのが迦旃延であった。そして、この彼がいてお釈迦さまの教えがガンジス河の中流域を超えて広がったことは確かである。
(二) 論議第一
迦旃延の論議第一とは、いわゆる議論に巧みなことではなかろうし、元々お釈迦さまはいつも弟子たちに戲論に耽るなと諭しておられた。またお経などにも迦旃延が議論らしい議論をして他を論破したなどという記述は少ない。従って、迦旃延の論議はお釈迦さまの深遠なる教えを、相手に知識の度合いを計り、興味を刺激しながら、分かり易く解きほぐす役をしたということであろうか。
さて、迦旃延には、故郷に帰ってお釈迦さまの教えを王と人々に正しく伝えなければならない使命感があった。それには先ず、彼がお釈迦さまの教えを正確に把握しておかなければならない。それが、理の奥義を彼に掴ませたのだろう。迦旃延がお釈迦さまに代わって、説法の意味を読み解けぬ比丘の解釈役をした例として、『分別経』にはこんな話があった。
お釈迦さまが比丘たちに「比丘は外に心が散乱せず、離散せず、内に安住せず、執着せず、恐れることがないようにと観察すべきである。以後、これにより、未来の苦が集まり生ずることはない」と説かれると、その場を立ち去り、精舎に入ってしまわれた。
しかし、比丘たちはこの意味が理解できなかったので、迦旃延の許を訪れた。彼はお釈迦さまが説かれたこの四禅、欲界の迷いを超え、清浄な天界に至るための四段階の精神統一について、詳細に説き聞かせた。これを聞いた比丘たちがお釈迦さまの元を訪れてこれを告げると、お釈迦さまは「迦旃延はよく真理を知る者である。私に質問したとしても、彼と同じように解説するであろう」と語られたという。また、「過去を追わざれ、未来を願わざれ」で始まる美しい「一夜賢者の偈」も、迦旃延が巧みに解説したと言われている。但し、これには阿難陀が解説したという話もあり、初心の比丘に対しては高弟たちが時に応じて様々な形で理解の手助けをしていたのであろう。
(三)一夜賢者の偈
さて、「一夜賢者の偈」であるが、これは、ある夜サミッディという比丘の元に現われた天人が、「是非お釈迦さまから伺うように」と勧め、お釈迦さまが彼に教えた偈とされている。そして、お釈迦さまは文句を教えると、そのまま立ち去ってしまわれた。そこでサミッディは迦旃延の所へ解説してもらうためにやって来た。「釈尊を差し置いて、私が解説するのは・・・」と迦旃延は辞退したが、「お釈迦さまは多忙でいらっしゃる。これ以上、解説の負担までおかけできない」と言うサミッディに、「では」と偈の意味を説き明かした。
『一夜賢者の偈』
過去を追うな。
未来を願うな。
過去は既に捨てられたものだ。
そして、未来は、未だ到来せず。
それ故、ただ現在のものを
それがあるところにおいて観察し、
揺らぐことなく、動ずることなく、
よく見極めて、実践せよ。
ただ今日なすべきことを熱心になせ。
誰が明日、死のあることを知らん。
まことに、かの死神の大軍と
遇わずにすむはずがない。
このように見極めて、熱心に
昼夜おこたることなく努める者、
かかる人を一夜賢者といい、
寂静者、寂黙者というのである。(『釈尊と十大弟子』ひろさちや)
つまりは、過去に執着せず、今日一日を疎かにせず、懸命に生きよということであろうか。サミッディは迦旃延の言葉を感激して聞き、後にお釈迦さまもその解説に頷かれたと伝えられている。
(四)故国での教化
迦旃延は悟りを開き、阿羅漢となって故国に帰った。そして、国王をお釈迦さまの教えに帰依させ、多くの家臣やその地の人々にも教えを説いた。
また、他の説では、アヴァンティ国王は残忍無慈悲な悪王として聞えていたので、お釈迦さまが王と民を哀れみ、かつてこの国のバラモンであった迦旃延を布教に遣わしたのだとも言う。そして、この説では迦旃延は邪教を信じていた王に何度も殺されそうになりながら、遂に王を教えに導いたとされている。
迦旃延に帰依した後、王は樹下に寝泊りする彼に、ある日は粗食を施し、他の日は美食を施してみた。ところが、そのいずれの場合も、彼は有り難くそれを受け取って心から満足し、いささかも態度に変わるところがなかった。
今度は、バラモンの僧に同様にすると、その僧は粗食の日には腹を立て、美食の日には大いに喜んだ。それで王はいよいよ迦旃延の人格を尊敬したという話しが伝わっている。
迦旃延が論議第一と言われる背景には、こうした辺境の地では他宗と法論で争わなければならぬことも多く、それが彼の弁舌に論理性やキレの良さを加えていったのだと思われる。また、辺境での布教は想像を越える困難があったことを、取り分け南方に伝わる『法句経註』などには記されている。
(五)侍者ソーナの出家
迦旃延がアヴァンディ国のクララガラのバヴァッタ山にいた時、彼の侍者ソーナ・コーティンカという青年に関わる話もその一つである。
ソーナは在家信者だったが、迦旃延の身近で説法を聞くうちに、自分も出家して修行したいと強く思うようになった。迦旃延は最初はそれを許さなかったが、ソーナが二度三度と強く出家を希望するので、とうとうそれを許した。
しかし、教団の定めによれば具足戒を授ける儀式には、和尚と呼ばれる師、司会役の戒師、実際に戒を授ける教授師に加えて7人の比丘が証人として立ち会うことが必要であった。けれども、アヴァンティ国には比丘の数が少なく、到底その数は満たせない。迦旃延は3年がかりで漸く10人の比丘を集め、ソーナに正式の戒を授けることができたという。
それから一年後、修行に励んだソーナーは一度でいいからお釈迦さまの説法を実際に聞きたいと望んで、このことを師に申し出た。迦旃延はその願いを快く許し、「世尊にお会いしたら是非こう申し上げるように」と彼からの願い事を託した。
①アヴァンティ国では比丘の数は少なく、ソーナの授戒の際、10人の比丘を集めるのに3年を要した。どうかこれからは具足戒を授ける時に必要とする僧の数を減らすことを許していただきたい。
②アヴァンティ国の土は黒く、牛の蹄で踏み固められていて、一重の履物では歩きにくくて難儀している。履物を重ねることを許していただきたい。
③この地方では、度々水浴して体を清める習慣があるので、それに従うこと。また獣の敷物を使う慣わしがあるので、それに従うことも許していただきたい。
ソーナは師の言葉をしっかりと頭に刻み、困難な旅を続けた後、祇園精舎に着いた。お釈迦さまは長旅の労を労われ、阿難陀に「彼のための座臥具を用意するように」と命じられた。阿難陀はその指示の心を察知して、お釈迦さまの部屋にこれを用意し、ソーナはお釈迦さまから直説十六偈を教えてもらい、これらを直ぐに記憶し、理解した。
それから、師の願いの件も過たずにお釈迦さまに申し上げた。お釈迦さまは、それをなるほどと聞き入れられ、「アヴァンティのような辺境では5人の比丘によって具足戒を授けることを許そう」と静かに言われた。また、風土や文化の違いによって守ることの難しい二、三の戒についても、土地に合わせて改めることを許されたのであった。
それはお釈迦さまの中道の精神であって、いつでも物事が上手くまとまるようにと考えておられた。インドは広く、言葉も習慣も大きく違っている。お釈迦さまの教えが広く民衆の間に知れ渡る間には、迦旃延のように辺境の地で懸命に布教する弟子たちの努力と、教え自体の中にも、それぞれの地方の習俗慣習を取り込む必要があったことを、この伝承は物語っている。(中村晋也)