(一)妻と結婚、共に出家
大迦葉、摩訶迦葉と呼ばれる。インド名はマハー・カッサパ。お釈迦さまの教団には、火の秘儀を行う事火外道の迦葉三兄弟を初め、迦葉の名を持つ人が多いので、「大」または「摩訶」、「偉大な」の意の字を付けて呼ばれている。生れはマガタ国の王舎城近く、マカシャラダ村の裕福な長者の家で、在家の名はピッパリ。バラモンの出身であり八歳で入門した。勉強好きで求道心が強く、16~17歳の頃には近郷に住んでいた舎利弗や目連と肩を並べるほどの教養を身につけていた。しかし、ピッパリは生来控えめな性格で、その学識を人に誇ることのない青年であり、やがて出家して修行に専念したいと思い定めていた。
ピッパリの両親は、後継者の出家は家系の断絶を意味すると、これに強く反対し、彼の考えを変えさせるために結婚を勧めた。彼は断固として従わなかったが、勧めが余りにも度々だったので、20歳の時ある工匠に黄金の美しい女性像を作らせ、これと同じ娘となら結婚しても良いと両親に申し出た。
ところが、そっくりな女性がいた。ヴァイシャーリー郊外のカピラカ村に住むバラモンの娘で、16歳のバッダーカピラーニーがその人。バッダーもまた同じように出家の希望を持つ女性であった。二人は互いの心の内を話し合い、その偶然を喜び、取り敢えずは両家の両親を安堵させて孝養を尽くそうと、黄金像を結納金として結婚した。しかし、夫婦としての交わりを持たずに過ごしたと伝えられている。
ピッパリが32歳になった時、両親は既に亡く、出家を妨げるものはもうなかった。ある日、ピッパリは鍬で掘り起こした土中の虫を小鳥が目ざとく見つけて啄ばんだのを見て、またバッダーは油を絞ろうとした胡麻に多くの虫が蠢くのを見て、人は殺生の罪を犯して生きているのだという事実に直面した。二人は出家の時が訪れたことを知って髪を剃り、粗末な衣に着替えて一鉢だけを手にして同時に出家した。途中まで同じ道を行ったが、男女が一緒にいるのは修行者としてふさわしくないと思い、とある四つ辻でピッパリは右に、バッダーは左にと分かれた。
バッダーはそれから多くの出家者の修行する林で修行を続け、後年お釈迦さまが尼僧院を認められた時、大迦葉に呼び寄せられて比丘尼になった。さらには阿羅漢にも達したと伝えられている。一方、右の道を行った大迦葉はその後竹林精舎でお釈迦さまに出会って帰依、その説法を聞くこと8日で悟りを開き、阿羅漢になった。
(二)頭陀第一
ある時、おそらく教団に入って程なくのことであろうが、お釈迦さまが托鉢を終えて樹の下に座ろうとされた時、大迦葉は自分の衣を脱ぎ、それを四つ折にして座を設けた。お釈迦さまはその上に座り、衣が柔らかであることを褒められた。お釈迦さまにすれば、何気ない謝意であったろうが、彼の耳にはこの言葉が深く響いた。彼は自らが師よりも上等の衣を纏っていたことを恥じ、お釈迦さまに願って着用されていた糞掃衣(ふんぞうえ)と交換して戴いた。以来、破れると接ぎを当てながら、終生それを着続けた。後には、当て布で衣が重くなり、お釈迦さま自身が「年を取った身にその衣は重かろう。もっと軽い衣に替えなさい」と勧められたほど、徹底してその衣を大切にした。
また、この一事をして、大迦葉がお釈迦さまの「衣鉢を継ぐ人」であることを示す説話であるという説もある。
さて、糞掃衣とは、また頭陀行とはどのようなものであろうか。『仏教語大辞典』などを引くと、そこには頭陀行とは「煩悩の垢を払い落とし、衣食住に貪りの心を持たないためにする修行である」と説明した上で、ある説では12種の生活規律が挙げられている。
①《糞掃衣》ごみ溜めのボロを拾いきれいに洗った衣を着る。
②《但三衣》三衣(下着と上着と、その上に羽織る大衣)以外を所有せぬ。
③《常乞食》常に托鉢乞食によって生活する。
④《不作余食》自分で食事を作らない。
⑤《一坐食》一日一食、しかも午前中のみ。
⑥《一揣食》(いちたんじき)一食の量を節し(丸めた食べ物一つ)、食べ過ぎない。
⑦《空閑処》人里離れた山林に住む。
⑧《塚間坐》(ちょうげんざ)墓場に住む。
⑨《樹下坐》樹の下に住む。
⑩《露地坐》空地に座る。
⑪《随坐》随所に夜具を延べる。
⑫《常座不臥》常に坐し、横になって寝ない。
比丘や比丘尼が守るべき通常の戒律よりも、頭陀行の決まりはさらに厳しい。例えば、戒律ならば篤信者からの供養の食事を受けても良く、その中には富裕な長者達の結構な食事もあっただろうが、頭陀行では許されない。
さらにまた、大迦葉は「お釈迦さまの教えが本当に必要なのは富める家ではなく、貧しい家の人々である」として、貧しさに苦しみ、生活に追われる人々の住む街を多く托鉢した。当然ながら布施される食事は貧しい。ある時は貧しい老婆に鉄鉢の中の握り飯を与え、自分は老婆の食だった米のとぎ汁を供養してもらって飲んだという。お釈迦さまが「それはいけない」と定められるまでは道端の食を拾って食べたとも言われる。
清貧に徹した生き方は仏教の守護神の帝釈天も賞賛したほどであり、これを天耳通をもって聞かれたお釈迦さまも、「托鉢によって生き、自ら養いて他の供養を受けることなく、寂静にして常に正念に住する比丘は、諸天も羨む」と語られたという。
(三)拈華微笑
これは後世の作とも思われるが、禅宗などで喧伝された寓話に、「拈華微笑」があり、大略は次のように語られている。
お釈迦さまが霊鷲山で弟子たちに説法をされていた時、一輪の金色の蓮華を献じた人がいた。お釈迦さまは、その蓮をしばらく弄んでおられたが、その内に軽く花の首をひねり、ちょっと微笑まれて皆の前に示された。だが、誰も意味を理解することができず、一座はシーンとしていた。一瞬の後、大迦葉だけがお釈迦さまの真意を悟って、にっこりと笑った。お釈迦さまはそれを喜ばれて、彼にだけ仏教の深奥の真理を全て授けられたという。
また、この話は、真理とは「以心伝心」で伝えるべきものであるという禅宗の立宗の基にもなっている。
(四)迦葉の行実
彼が年老いてくると、お釈迦さまも、他から苦行とも見える頭陀行を緩め長者らの施食を受けたらどうかと勧められた。
お釈迦さまは相変わらずの姿で、長い布教の旅から帰った大迦葉に言われた。「大迦葉よ。そなたも年老いたことだし、もう厳しい頭陀行でそのように身を苦しめる必要もなかろう。長者の施食も受けたら宜しい。その衣も幾重の当て布で重かろう。山林ばかりに住むこともないのだ・・・」と。
これに対して、大迦葉は二つの存念を述べて「このまま続けたい」と答える。その一つは、「このような生き方が私には楽しい」であり、また一つは「我々が長者達の衣食の接待を受けると、それがひいては後の比丘たちが衣食を貪り、苦しい行を厭うようになる。それが仏法の衰退にも繋がる。そのため私の頭陀行が後人に聊かでも益することがあろうと思って・・・」であった。
元々、お釈迦さまは極端な苦行を避け、「非苦非楽」の中道を説かれた方である。この時は「楽しい」という一語に大迦葉の生き方を是認され、「大和尚の頭陀行があれば、我が法も長く世にあるであろう。比丘たちも大いに彼を見習うべし」と説かれたと言われる。
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お釈迦さまの教団に於いて、大迦葉はどちらかと言うと、自らの修行に精勤し、インド各地の布教に汗と埃に塗れながら勤しんでいた人である。舎利弗と目連の二人が一双の上首として教団の経営に当たっていた当時はなおさらそうであった。しかし、仏伝などを読むと、お釈迦さまは早くからこの人を後継者に考えておられたのではないかという伝承が散見される。
お釈迦さまが祇園精舎で説法されていた時、辺境の地で布教をしていた大迦葉がボロボロの衣を来て、髪をボウボウにして現われた。若い比丘たちの中には彼を知らない者もあり、「何と威儀をわきまえぬ者か」とざわめいた。その様子を見たお釈迦さまは説法を中断され、大迦葉を招いて自分の座を半分空けてそこに座らせた。そして、「貴方は私より先に出家し、私は後に出家した」と、弟子たち全てにお釈迦さまに対するのと同じように三拝することを求めた。もとより慎み深い彼のことである。以ての外であると、自ら弟子の代表となってお釈迦さまを三拝し、それから側らに座った。お釈迦さまは「禅定においても、神通力においても、大迦葉は私に等しい」と褒められ、弟子たち一同も以後決して彼を軽んずることはなかったという。
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大迦葉は、表面的には立たなかったかもしれないが、実のところ舎利弗や目連の良き相談役でもあった。舎利弗がお釈迦さまには相談しにくい難問を抱えて目連共々困り果てていた時、二人は同時に大迦葉に相談することを思いつき、目連が得意の神通力で旅にあった彼を探し出してテレパシーを送った。大迦葉はそれをキャッチして急ぎ祇園精舎に戻り、舎利弗に自分の解決策を語った。そして、彼のアドバイスにより上手くことを収めた二人が感謝の意を伝えようとした時、大迦葉の姿はすでに精舎にはなく、いつものように平然と布教の旅に出て行った後だったと伝えられている。
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お釈迦さまが涅槃に入られたのはクシーナガルの林中で2月15日とされている。
この時、舎利弗、目連は既に亡く、大迦葉は遊行中であり、お釈迦さまの葬儀の一切は盲目の長老阿那律と、長年侍者を務めた阿難陀が中心となって心を尽くして営まれた。
そして、7日目の供養を受けた後、うず高く香木を積んだ上にお釈迦さまの金棺を安置し、いよいよ荼毘に付す時が来た。阿那律が恭しく香油を注ぎ松明で点火した。ところが、香木に火がつかない。何度点火しても火は香木に燃え移らなかった。
天眼第一の阿那律は、棺に向かって座禅を組み、お釈迦さまの亡骸を透視して心の内を探り見た。そして、「程なく大迦葉が到着される。それまではいかに油を注ごうとも、火は燃えつかない」と言った。大迦葉は500人の比丘たちと共に、お釈迦さまの最後の旅に何日か遅れて、同じ道を遊行していた。そして、クシーナガルに程近い所まで達した時、花を手にして泣き泣き歩いている一人の外道の行者に会い、お釈迦さまの亡くなられたことを知った。お釈迦さまが亡くなられたと聞いて、悲嘆にくれ泣き叫ぶ弟子たちの中で、大迦葉の耳は、この時思いもよらぬ声を聞いてしまった。「我等は今や大沙門から脱して自由になることを得た。これからは煩く小言を言われずに、好きなように暮らせる」と。それは、弟子たちの中でも行いが悪く、六群比丘と呼ばれて鼻つまみにされていた6人の一人、抜難打(バツナンダ)の声であった。
ここにちょっとした裏話がある。
以前、大迦葉が東園精舎にいた時、「昔は制戒が少なく、比丘等も楽しく学んで利益が多かった。しかし今は制戒が多く、反って学習を楽しまない」と憤慨したことがあった。そして、そのことを知ったお釈迦さまは、彼に「正法が亡びる時は、その原因として五濁と偽の教えを皆がもてはやし、正しい師と法と学を人々が敬わないことがある」と諭されたことがあった。
だからこそ、大迦葉の耳は誰よりも鋭く抜難打の言葉を捉えた。彼は厳しく抜難打を叱りつけながら思った。「そうだ、これで少し伸び伸びできるという者がきっと出て来る。自分の上で良き押さえとなっていた人の重みがフッと消えた時に、それは出てくる」。大迦葉は悲しみの中に黒雲のように湧き上がる暗澹とした思いを振り払うように、駆け出すが如くクシーナガルに向かった。
一行の到着を待って、改めて荼毘に付す儀式が行われた。大迦葉がお釈迦さまの金棺に向かって、在ますが如く三拝をし合掌した後に、差し出された松明を香木に近づけると、たちまち火は燃え移り、香木の香りが立ちこめた。
(五)第一結集
10日ほど過ぎ、お釈迦さまの遺骨の供養も終わった後、大迦葉は比丘たちに提案した。「我等は一刻の懈怠も許すことなく、お釈迦さまの説かれた教法と戒律を正しく編纂しなければならない。さもないと、非法、非律を説く者がはびこって、正法、正律を守る者を滅ぼすであろう」と。その顔には、お釈迦さまの教えを次の世に正しく伝えていかねばならないとする責任感があふれ、大迦葉はこの時名実共に教団の明日を担う人になった。
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その当時、お釈迦さまの教団には「修行僧たちが衰亡をきたさないために」と定められた七つの行動指針、あるいは運営方針があった。その第一は、「修行僧たちはしばしば会議を開き、それには多くの修行僧が参集すべきである」という条項だった。第二は「修行僧たちは、協同して集合し、協同して行動し、協同してなすべきことをなせ」であり、第三は「未定のことは定めず、既に定められたことを破らず、定めた通りに戒律を保って実践せよ」である。
大迦葉がお釈迦さまの説かれた法と戒を正しく後世に伝えようとした時、それが多くの比丘たちを集めての結集という形を採ったのは、これによるものである。主だった弟子たちが協議して、その会議「第一結集」は夏安居の最中の6月17日に行われることに決まった。集うのは、全員が悟りを開き、阿羅漢の位に達した500人。場所は竹林精舎から西南に一里ほどの七葉屈。一座を統べる大迦葉の元に、持戒第一の優波離がお釈迦さまの説かれた戒と律を、多聞第一の阿難陀が同じく法を記憶から性格に甦らせて唱え、全員がそれを「正しい」とした時、それが長く皆が守るべき戒律になり、法になることが決まった。
七葉屈の岩の間に500人が緊張した面持ちで集まり、結集の第一日目が始まった。大迦葉が結集の意義を陳べ、先ず優波離がお釈迦さまが生前に定め置かれていた戒律や懲罰を含めた律を一つずつ述べた。大迦葉が一つひとつ、それに異論があるかどうかを確認し、全員が「異論なし」と答えると、定めや掟が決まった。それを全員が頭の中に刻み込んだ。
次は法。この結集の始まる朝早く悟りを開き、500人中の500番目に参加資格を得た阿難陀が「如是我聞(かくの如く我れ聞けり)」と、記憶していたお釈迦さまの教えを唱えた。全員が「その通り」と認めると、それが法になった。この第一結集が6月17日に始まったということは伝えられているが、何日に終わったかは記録にない。
阿難陀が最後の教えを述べ、大迦葉がすっくと立って、「異論のある者はないか」と威儀を正し、大音声で尋ねた。「異論なし」と500人の声が洞窟内にこだまし、ここにお釈迦さまの教えが500人の頭と心に刻まれた。
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経典として後世に伝わる基ができると同時に、誰もが、頭陀行による気力と体力で、長い緊張の時間をみごとに統率した大迦葉が、これから先の最高リーダーであることを認めた。第一結集を終えると、大迦葉は教団の経営に当りながら、以前と変わらぬように頭陀行に励み、百歳を過ぎた後、阿難陀に後事を託して涅槃に入ったと伝えられる。その死を聞いた王舎城のアジャセ王は深く嘆き悲しみ、「第二の仏が逝かれた」という言葉で功績を讃えたと言われている。(中村晋也)