(一)舎利弗の誕生
舎利弗はマガタ国の王舎城の近く、霊鷲山の麓のナーラカ村でバラモンの子として生まれる。父の名はヴァンガンダであり議論に長けた人として知られていた。母の名はルーパサーリーと言い、母もまた弁舌に優れた人であった。その当時のインドには子ども名前を母親の名から取る習慣があり、舎利弗の名サーリープッタは「サーリーの子」の意味であると言われている。どちらも議論に長けていた両親に育てられた舎利弗は、バラモンを初めとする宗教、哲学などを学んで16歳の頃には既に周辺に名が轟いていたと伝えられている。
(二)舎利弗の出家
近くのクーリカ村に生まれたコーリタとは若い時から仲が良く、しばしば行動を共にしていた。この彼こそ、終生変わらぬ友となり、後には舎利弗と共にお釈迦さまの教団の二大長老となった目蓮である。
その当時、二人の住む辺りには「山頂祭」と呼ばれる祭りがあった。青年期のある年、二人は誘い合って山頂に登り、着飾って次々に登ってくる大勢の人を見ていたが、ふと「百年後、この人々は一人も生きていない。人は全て死に跡形も無くなってしまう」と、無常観のようなものを感じたとお経などにはある。
(三)舎利弗の求道
これが動機となって、二人は一緒に出家し初めは懐疑論者のサンジャヤに師事した。当時、王舎城の一体には旧来のバラモンの教えに安住できない信仰の思想家たちが、バラモンの根本聖典である「ヴェーダ」の権威に従わずに、それぞれに自説を主張して賑やかに活動をしていた。
中でも「六師外道」と呼ばれる六人が名高く、サンジャヤもその一人。「人間は一切の真理を知ることはできない、全ては疑わしいものである」という懐疑論、あるいは不可知論を唱え250人の弟子を率いていた。舎利弗と目連は、たちまち氏の説をマスターして高弟となり、時には師に代わって教えを説くほどになった。が、その学説では心からの満足が得られず、かえって他に理想の真理を求めていた。
舎利弗がサンジャヤの許で数年間を過ごしたある日、彼は王舎城の町で托鉢中の一人の修行僧に目を止めた。その人は質素ではあるが清潔な衣をまとい、しっかりと足元を見つめて歩む一歩一歩に心の安定が感じられた。舎利弗は、その当時の礼儀に従って、托鉢が終わるまで後をついて歩き、そして語りかけた。
「沙門よ、貴方の心静かな態度に惹かれてついてきました。貴方は誰で、その師は誰なのですか。そして、その師が何を教えていらっしゃるのか、どうぞ教えてください」と。「私はアッサジと言い、師は釈尊であります」と、その修行者は答えた。そして、「私は比丘になって日が浅いので、教えを詳しく説く力はないが」と断った上で、お釈迦さまの「縁起法頌」を告げた。
諸法は因より生ず
如来(釈尊)はその因を説きたもう
諸法の滅をもまた
大沙門(釈尊)はかくの如く説きたもう(南伝大蔵経「律蔵」大品)
つまり、アッサジは「全てのものは原因(因縁)があって生ずる。この世のあらゆる事物、現象は全て互いに関連しあっていて、何一つ孤立したものはない」という、お釈迦さまの教えの中心である「縁起の思想」を述べた。
舎利弗は、これだけを聞いて、いかにその教えが素晴らしいものであるかが理解できた。舎利弗と目連は直ちにお釈迦さまの教団に入ることを決め、師のサンジャヤにも同行を勧めた。しかし、サンジャヤは頑として説得に応じなかった。二人の高弟とそれに続いて出て行った250人の弟子たちの後姿を見ながら、サンジャヤは口から熱血を吐いて悶絶したという話が伝わっている。
二人は仲間と一緒にお釈迦さまの許で比丘として守るべき具足戒を受けたが、この時お釈迦さまはそれぞれの資質の優れていることを見抜き、「いずれ私の教えを聞く人たちの上首となるであろう」と語られた。正しくその通り、目連は7日で阿羅漢の域に達し、舎利弗は半月で達した。
(四)長老舎利弗の行実
舎利弗は教団に身を投じた後、道を開いてくれたアッサジの恩を忘れず、アッサジのいる方角に絶対に足を向けて寝ることはなく、それを一生涯やり通したと言われている。
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その他、お釈迦さまの教団での舎利弗の活躍は様々な形で伝えられている。例えば、マガダ国のスダッタ長者がお釈迦さまのために祇園精舎の寄進を思い立った時、建築の指揮を取るように命じられたのが舎利弗であった。
しかし、この時、彼にはもう一つなすべきことが起きた。というのは、その地は予てからバラモンの一大勢力下にあったので、彼らは新興宗教に当たるお釈迦さまの教団に精舎を作らせたくなかった。それで猛烈な反対運動を展開したのであった。とうとうそれぞれが代表を出して問答の勝ち負けによって精舎の建立について決着をつけることになり、会場はバラモンの道場、論者はお釈迦さま側が舎利弗、バラモン側が赤眼(せきがん)という修行者に決まった。両者が向き合って対座すると、さすがに赤眼も一派の代表者である。人品骨柄を一目見ただけで、論戦するまでもなく舎利弗に勝ちがあることを見抜いたという。しかし、座を立つわけにもいかず、しばし神通力で対戦。やがて潔く負けを認めた彼はその場で舎利弗に弟子入りを申し出た。そして程なく精舎の建設が始まった。
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祇園精舎、竹林精舎で舎利弗は法を説くお釈迦さまのまん前に座り、おそらく最も多く説法の相手(対告衆)を務めた。『般若心経』では、お釈迦さまは「舎利子よ」とよびかけて「色即是空、空即是色」と「空」の真意を説かれ、『阿弥陀経』では三十六回も舎利弗に呼びかけて極楽浄土の姿を語られている。
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非常に信頼されていた舎利弗であったから、お釈迦さまは彼を「善友」「良き道同者」と呼ばれた。
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お釈迦さまの実子羅嵯羅の出家に際して、沙弥戒の戒師となり、末永く指導して欲しいと依頼されたのも彼であった。しかし、舎利弗には既にマハーチュンダという沙弥がおり、教団では二人の沙弥を持つことを禁じていたので、このことを述べると、お釈迦さまは「貴方のようによく教誡する者は二人の沙弥を持っても宜しい」と、決まりを変えて師とされたという。
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『雑阿含経』には、舎利弗が王舎城の尸陀林(しだりん)墓のあるような場所に弟子の一人を訪ねた時、彼は運悪く毒蛇に噛まれて亡くなっていた。舎利弗は屍を供養し、教団に帰って事の次第を報告すると、お釈迦さまは舎利弗の身を案じて、毒蛇を避ける偈を教えてくれたという。
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古い伝承によれば、当時は一所不住の教えがあった。その当時、裕福な篤信者が設けた施食または施宿所があったが、お釈迦さまは比丘たちが信者の行為に甘え過ぎるのを心配されて、「一ヶ所で食の供養を受けるのは一食だけ」と決められていた。
舎利弗がコーサラ国の施食所に立ち寄った時、人々は彼を鄭重にもてなしたが、たまたまそこでひどい病気に罹り、その場を立ち去ることができなくなった。にもかかわらず、彼はお釈迦さまの戒めを守って、病をおしてその地を去り、症状をますます悪化させた。
後にこのことを聞かれたお釈迦さまは、それまでの戒めに「病んでいない比丘は」の一語を付け加えて決まりを改め、律儀に定めを守った舎利弗の誠意に応えられたと伝わっている。
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舎利弗は律儀に、身をきれいに生きた。言葉を重ねるならば、最後まで身を抑制して死んだという印象が強い。
例えば、あるバラモンが城内で托鉢する舎利弗の姿を見て後について行くが、どこにいても乱れがなかった。バラモンは托鉢から戻って足を洗う舎利弗の姿を見て歓喜心を起こし、さらに舎利弗の説法を聞いて仏教に帰依する心を持ったという。
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ある時、釈尊に「神通第一の目蓮より智慧第一の舎利弗の方が勝っているのでしょうか」と尋ねました。この言い方からしますと、あるいは人の目には、目蓮より舎利弗の法が智慧において優れているということに疑いを持っていたのかもしれません。その疑問に答えて釈尊は二人の過去世での話を語って聞かせられます。
ある町で、二人の画家が互いに技を競い合っていました。ある時、国王が二人の優劣を決めようと、それぞれ得意の絵を描くように命じられました。一人の画家は直ちに制作に取りかかり、六ヵ月後、みごとな絵を描きあげました。ところが、もう一人の画は少しも絵を描かず、ひたすら壁を磨いてばかりいました。やがて見に来られた王は、初めの画家の絵のみごとさに深く感服されました。次いで、反対側に描かれてあるもう一人の画家の絵をご覧になりました。それは最初の画家の絵よりももっと深みのある、素晴らしい絵でした。王が感銘しておられると、その画家が静かに進み出て申しました。「これは私が描いたものではありません。私はただ壁を磨きあげただけなのです。その壁にあの画家の絵が映っているのです。ですから、これが美しいとしたら、それは向かい側の絵が素晴らしいからです」。その言葉に王はいよいよ感服されたということです。
その話をされた釈尊は、絵を描いたのが目蓮、ひたすら壁を磨いていたのが舎利弗であったと付け加えられています。同じような話がいくつか伝えられていますが、特にこの二人の画家の話は智慧第一の舎利弗の本質をみごとに伝えていると思います。
つまり、舎利弗の智慧は、あらゆる物の美しさを引き出し、映し出すまでにその壁(心)を磨き尽くされたものであったのです。我が才能を表に現し誇るものではなく、逆に一人ひとりの才能を褒め讃え、その尊さを一人ひとりに気づかせる力であったのです。(藤場俊基)
(五)お釈迦さまに代わって
お釈迦さまの入滅は80歳の時とされている。いかに精神力の堅固なお釈迦さまでも、疲労のために説法を中断される事態が生じ、その時、代わって説法を続けるのは主に舎利弗、目連の二人であった。
舎利弗が祇園精舎で比丘たちに法を説いていた時、聴聞していた比丘の中にヴァンギーサーという、かつて詩を能くした比丘がいた。彼は舎利弗の話の分かりやすさと口跡の清澄さに感動して座を立ち、舎利弗を合掌して彼を賛美する偈を発表した。
大いなる智者サーリープッタは
智慧あくまでも深く、賢く
道と道ならぬを巧に分かち
比丘たちのために法を説いた
あるいは、略して簡潔に語り
あるいは、開いて広大に語る
声の明澄なるはサーリカーの如く
その弁舌は涌き出ずる泉の如し
その声はまた蜜の如く楽しく
耳もさわやかに説き出ずれば
比丘たちは心おどり、心よろこびて
耳を傾けてぞ聞きにける(『仏教百話』増谷文雄)
(六)舎利弗の死
舎利弗が自分の死期を知ってお釈迦さまの元から暇乞いをする。その時舎利弗は80歳に近い年齢であったと言われる。生涯の友の目連はすでに世を去り、自らの命も長くないことを予感した舎利弗は、故郷のナーラカ村で死を迎えたいと考えた。お釈迦さまは、「ここ、竹林精舎で病を養うように」と再三勧められたが、「故郷には母がまだ存命であり、できれば母のもとで死にたい」と、珍しく師の言葉に従わなかった。そして同座した弟子たちにお釈迦さまの徳を讃え、教えの尊さ、偉大さを告げる最後の説法を常と変わらずに懇説した。それからお釈迦さまを深々と拝すると、その合掌した姿勢のまま一歩下がり頭を下げ、また一歩下がり頭を下げ、道場の出口までの百歩ほどを決してお釈迦さまに背を向けず、後すざりで退場した。
故郷の村では、驚き悲しむ母に、渾身の力を振り絞って最後の説法を説き聞かせ、別れを惜しんで駆けつけた人々にも「ますますお釈迦さまの教える道に精進するように」と告げて、大きな満月の元、自らの生まれ育った部屋で息を引き取ったと伝えられる。
舎利弗の遺骨と衣鉢は、付き添っていたマハーチュンダが捧げ持ってお釈迦さまの元に帰った。阿難陀が出迎えたが、心やさしい彼は「信頼深かった舎利弗に先立たれたことは、お釈迦さまの痛恨事に違いない」と思うだけで、ただただ泣き崩れるばかりだった。お釈迦さまは阿難陀に「阿難陀よ、そう嘆いてはならない。私は予てから教えているではないか。全ての人に愛する者と別れなければならぬ時が来る。愛別離苦の苦しみが訪れる。この世に移ろい変わらぬものは一つとしてありえない。別れは人生の根源的なものであり、誰もその苦しみから逃れられないのだ」と諭された。
程なく開かれた布薩の夜、半月の間の罪を懺悔するために集まった比丘たちの中に舎利弗の姿はなく、もとより目連の姿はなかった。お釈迦さまは「この集いの中に二人の姿がない。この会は虚しく、私の心は淋しい」とつぶやかれたと伝えられている。
その後お釈迦さまは弟子たちに命じて、舎利弗と目連の供養塔を建てさせ、自らも供養されたと伝える仏典もある。(中村晋也)