― 仏説阿弥陀経 講義2 ―

(私一人のために説かれた阿弥陀経)

『阿弥陀経』の説法の会場に集まった聴衆は1250人であったと記されています。長老舎利弗・摩訶目建連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延・摩訶倶羅・離婆多・周利槃陀伽・難陀・・・」と続くのは十六羅漢と呼ばれる、ひと際優れた16人のお弟子方の名前であります。舎利弗や摩訶目建連(=目蓮尊者)は多くのお弟子の中でもずば抜けて才智鋭敏の方で、一を聞いて百を知るほどの秀才でした。摩訶迦葉は釈尊が入滅された後、教団をまとめて、経典の編纂という大事業を推進した優れた指導者でした。摩訶迦旃延や摩訶倶羅は議論において並ぶ人なく、また弁舌が巧みで聞く人の心を奪ってしまう才能の持ち主でした。離婆多は無欲に徹底した人物で、他を羨んだり不平を言うことはなく、いつでもどんな状況にも満足して感謝する人でした。
このように見てくると、釈尊のお弟子方は皆人並み優れた才能豊かな人物ばかりで、私共とは異質な人格のように見えますが、お弟子は皆々そのような方ばかりではないのです。
周利槃陀伽というお弟子は極めて愚鈍で、自分の名前さえも憶えることができないほどであったと言われています。また迦留陀夷という人は、お弟子の中では悪行や非行が多く、彼の悪行のたびに制定されたのが戒律だと言われるほどの行状の持ち主でした。しかし、それほどの無智、鈍才であっても、非行青年であっても、釈尊の教えに帰依して、遂には阿羅漢果という悟りを開くことができたのです。このように、釈尊の教えを受けて、悟りを開いたのは優れたエリートばかりではなく、鈍才も非行青年もいたということは、私たちにとって心和みます。仏の教えは私のような愚鈍で心が醜い者でも除外されないことが分かるからです。

東海地方のあるお寺の、庭続きの裏山に千余体のお地蔵さんがあるそうです。古い時代に子どもを失った親たちが、亡くなった子どもの面影に似せて作ったお地蔵さまをこのお寺に納めたのだそうです。貧しく、医療の未発達な時代の悲しい記念碑なのです。そのお寺が、現在大変な賑わいをしているというのです。「あそこへ行けば死んだ子に会える」という評判で、可愛い子どもを失った人たちが遠近からやって来て、裏山のお地蔵さんを一体ずつ拝むのです。一体ずつ皆顔が違うのですが、千余体も拝んで行けば、その中に一体くらいは亡き子にそっくりの面影を発見できるのです。その前で持参したお弁当を広げ、終日家族で団欒の時を過ごし、「また来るからね」と別れを惜しんで帰るのだと聞きました。
『阿弥陀経』の説法の聴衆1250人というのは、単に人数を言っているのではないのです。その中には、知能といい性格といい、境遇といい、背格好から顔形まで、私と寸分違わないお弟子もいたということです。さらに言えば、この説法の場に私がいたと理解したいのです。いいえ、私のためにこの経は説かれたのだと聞く時、この経の教えが私の命として受け止められるのです。


菅沼晃氏のお話
『小経』の十六羅漢と釈迦十大弟子
十大弟子とはどんな人で、いつ、誰によって定められたのであろうか。お釈迦さまの弟子は1250人とも2000人を超えるとも言われるが、『南伝大蔵経』に基づくとする説では、『律蔵』には、例えば「戒律第一」というような称号を与えて賞揚された弟子は比丘40名、比丘尼13名、篤信者男女22名ということである。また、お釈迦さまの優れた弟子たちへの尊敬は十六羅漢あるいは五百羅漢に対する信仰を生み、『増一阿含経』には500人の弟子名が書かれている。
しかし、十大弟子については『維摩経』による説が主流であり、それは、維摩居士の見舞いに高弟を遣わされた時の10名を以て十大弟子と定められたということである。

 長老舎利弗  サーリープッタ  智慧第一
 摩訶目建連  マハー・モッガーラーナ  神通第一
 摩訶迦葉  マハー・カッサパ  頭陀第一
 摩訶迦旃延  マハー・カッチャーヤナ  論議第一
   摩訶倶  マハー・コッチタ  四弁第一
   離婆多  リハタ  無倒乱第一
   周利槃陀伽  チュッラパンタカ  義持第一
   難陀  ナンダ  儀容第一
 阿難陀  アーナンダ  多聞第一
   ラーフラ  密行第一
 驕梵波提  ガヴァンパテイ  多天供養第一
   賓頭盧頗羅堕  ピンドラ・バァーラヴァージャ  福田第一
   迦留陀夷  カールダーイ  教化第一
   摩訶劫賓那  マハー・カッピィナ  知宿星第一
   薄拘羅  バックラ  寿命第一
 楼駄  アヌルッダ  天眼第一
   須菩提  スブーティ  解空第一
   富楼那  プンナ・マンターニプッタ  説法第一
   優波離  ウパーリ  持律第一
















仲野良俊先生のお話

十大弟子の選定
舎利弗と維摩居士と文殊菩薩

在家の方で智慧が優れていることで有名なのは維摩居士です。居士というのは在家ということです。この維摩の悟りは鋭いものです。『維摩経』というお経があるぐらいです。
ある時、この維摩が病気をしたのです。だから、維摩の病を問うということで『所問経』と言う。釈尊はそのことを伝え聞かれ、仏弟子を派遣しようとして、まず老舎利弗に、「維摩が病気をしているので、すまぬけど見舞いに行って欲しい」と仰ったのです。ところが、舎利弗は、「せっかくの世尊のお言葉ですけれども、他のことは何でもさせていただきますが、維摩さんの所へ行くことだけはお許しください」と言う。
煩悩を断じた阿羅漢と菩薩とでは、そこに大きな悟りの違いがあるのです。それで菩薩の悟りを得ている維摩からいつも叱られるのです。舎利弗が山に籠もって修行していた時、維摩がやって来て、「こんな所で磨いた智慧が何に役立つか」と言われて、ボロクソにやられた。現実ということを喧しく言うのが菩薩で、現実を捨てるというような形を取っているのが阿羅漢ですから、そこには大きな悟りの違いがあるのです。「こんな静かなところで磨いたような智慧が間に合うか」というのは、つまり、「お前は居れるところに居る。それは誰でも居れる。居れぬところに居るのが無住処涅槃だ」ということなのです。実は、そこが問題なのです。「何処にでも居れるということでなければ完全なる悟りではないではないか」ということで、こっぴどくやられたのです。そういうことがあるものだから、舎利弗は維摩の所へ行きたくないのです。
そこで釈尊は、今度は目蓮に頼まれる。ところが、目蓮も、「維摩の所へ行くことだけはご勘弁願いたい」と言うのです。ある所で目蓮が説法していた。それを維摩が聞いていて、後で「何だ、あの説法は」と言われた。非常に実体的な話だったのでしょう。それで、「平等ということを知らないのか」と言われてひどくやられたのです。
次に、羅が頼まれたが、羅羅は自分が人々に出家の功徳を説いていた時に、維摩から、「そんな功徳などを説いているうちはだめだ、功徳を求めているような者はまだ駄目だ」と大変叱られた。だからやはりご勘弁願いたいというのです。このように釈尊はほとんどの阿羅漢に頼まれたのですけれども、皆お断りするのです。皆お断りする、それだけは勘弁してくださいと言う。
そこで、釈尊は仕方がないから文殊菩薩に頼まれたのです。すると文殊は、「とても私のような者に世尊の名代として維摩の病気を問うような資格はございません。しかし、世尊の仰せとあらば謹んでお受けいたします」と。自信があるんですね、それで見舞いに行ったのです。すると、他の阿羅漢たちも「文殊が行くからもう大丈夫だ」「文殊の影にさえ隠れていれば当りは避けられる」という訳で、断った連中が文殊の後からぞろぞろと付いて行ったのです。
そうして、維摩と文殊の間で、本当に火花の散るような遣り取りがあったのです。それに天が感動して花を降らす、「当雨珍妙華」です。余りに研ぎ澄まされた悟りの問答の遣り取りに天が感動するのです。そのために雨のように花を降らせた。それが文殊や維摩の上に落ちてきて、衣を伝わって下へ落ちてゆく。

ところが、舎利弗や目蓮などには花がピタッとくっつくのです。それを慌てて払い落とそうとすると、維摩が目ざとく見つけて「何をしていますか」と聞いた。せっかく文殊の影へ隠れていたのにどうしようもない。聞かれて「これは如法ではない」と言った。「けしからん」という意味です。「貴方方には花は一つもくっつかず、私たちの方だけにくっつく」と。それで「如法でない」と言うのです。
そこで維摩は「そういう心が花をくっつけるのだ」と言った。まだそこに「けしからん」というものが一つあるのです。貴方方にはくっつかずに私にばっかりくっついている、これは「けしからん」と言うが、そういう心が花をくっつけているのだと。平等になれない。くっつこうが、くっつくまいが、いいじゃないかという訳です。くっつくのと、くっつかないのと、なぜ区別するのだと。その区別する心が、実は花をくっつけているのだ。平等の悟りが完全でない、だから花がくっついているのだ。区別している心が花をくっつけていると、また非常に叱られたのです。
これは『維摩詰所問経』の中にある非常に有名な話です。