(寺川俊昭先生のお話)

『正信偈』の最初の言葉は、
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。」
です。無量寿、不可思議光とは言うまでもなく、阿弥陀の意味ですから、寿命と光、量りなき仏に帰依したてまつるとは、南無阿弥陀仏の意味というか、中身を聞いたものに外なりません。「念仏のところに救いがある」ということは、してみると、念仏によって人生の中に、量りなき寿命と光とを感じて生きてゆくということであります。量りなき寿命と光といっても、何かつかみどころのない、漠然としたものを感じないでもありませんが、私はこの量りなき寿命ということを、

『念仏のことろに体験される祖先との対面、そこに感ぜられる無限に深い「いのち」の触れ合いというところに自覚されるもの。』
と、このように了解してみました。今一つの光とは、もちろん人生を照らす光でしょう。私の町は、山の中にありますので、一晩中明りがついていて、本当の暗闇というものがなくなった都会とは違って、本当に真っ暗な、一点の明りもない闇があります。そんな真っ暗闇の夜道を歩いていて、ふと、
「無明長夜」
ということを強く感じたことがありました。無明長夜を、まざまざとこの眼で見た思いをしたことがありました。おそらく人生の旅路の中で、自分では全くどうしてよいかわからない、
「ああ、暗いなぁ。」
と、つぶやく他はないような、まさに無明の長夜に触れたものであるならば、この量りなき光の如来を、絶対の救いとして仰ぐことの意味がよくわかるのではないでしょうか。
「光明は智慧のかたち」
と言われます。量りなき光は、量りなき智慧を表わすとすれば、この光に照らされるということは、何かそこに本当の智慧、人生の道理を正しく見極める智慧が、おのずと身につくといいますか、そういう眼が開けてくるということだとも言えます。
そして、そういう、おのずと開けた智慧の眼によって、同時に、量りなき光に包まれ、量りなき「いのち」の中にある自分を見出すのではありますまいか。念仏が救いだと言われるのは、このようなことであるに違いありません。してみますと、この量りなき寿命と光というものは、人間の「いのちの根源」とでも言いますか、何か人間の「いのち」がそれに触れなければ、本当に落ち着けないものを表わしているようです。自分の「命」がそこから出てきたものと、自分の「魂のふるさと」、そういうものが量りなき寿命と光で表わされております。
「寿命と光、量りなき仏に帰依したてまつる」
とは、まさにこの人間の魂の本当のふるさとに帰ってゆくことであります。「いのちの根源」「魂のふるさと」に目覚め、そこに帰ってゆく、人間の魂の大きな運動であります。そしてこの根源、ふるさとこそ、一如の世界でありますから
「帰命無量寿如来、南無不可思議光」
こそ、広く大らかにして極まりのない仏法が、今ここに生きてはたらく、「いのち」に満ちた姿なのであります。