（宮城顗先生のお話）
善導大師は、隋の大業９（６１８）年の生れです。隋を開いた人が文帝（ぶんてい）、その次が煬帝（ようだい）です。大業９年というのは、その二代目煬帝の時代です。この大業９年という年は、道綽禅師５１歳の年に当たります。
これに先立つこと４年、道綽禅師はそれまでの講説を捨てて浄土の一門に帰し、浄土の行を修め、一向に阿弥陀仏を専念されるに至ったとありますから、恐らくは、その念仏の教化は、ようやく弘まり始めた頃であったと思われます。当時中国は隋の時代、天下を統一した文帝の後を受けて煬帝が国を修めています。北周・武帝による激しい弾圧の嵐を受けた中国仏教界も文帝、煬帝の保護を受けて中国仏教史上でも特に実り多い時代を迎えました。特に文帝の保護は厚く、
「天下の人、風にしたがって靡き、競うて相景慕し、民間の仏経は六経より多きこと数十百倍す。」
と記されているほどです。
その後を継いだ煬帝は、仏教中心の治国政策を改め、儒教国家の体制を採りましたが、しかし、だからといって仏教を排斥したわけでもありません。聖徳太子が小野妹子を遣隋使として隋に遣わされたのが、この煬帝の大業３年です。ですから、この時代というのは聖徳太子が仏法を中国から学んでいかれた、その時代に当たるわけです。煬帝に宛てた、いわゆる聖徳太子の親書、その中で、
「海西の菩薩天子」
と、煬帝のことを「菩薩天子」と言われています。「仏法を尊重し興されるをもって、この書を呈す。」という聖徳太子のお手紙があるわけですが、そのように煬帝という方も仏法というものに深く心を用いておられた方です。
この隋の時代というのは中国においても非常に仏法が盛んになった時代でありまして、例の孫悟空の物語で有名な三蔵法師、あの玄奘（げんじょう）三蔵が印度から沢山の経典や論書を持って帰られたのもこの時代です。その三蔵法師が新しく持って来られた経典によって、中国における仏法の研究というものがいよいよ盛んになりました。したがって、この時代には、沢山の名僧といいますか、中国仏教の歴史に名を残した方が相次いで出ておられます。浄影寺の慧遠、天台宗を開かれた天台大師智顗、それから嘉祥寺の吉蔵。こういう方々をはじめとして、沢山の高僧が出られた時代です。
もっとも、このような仏法の輝きも、ただ純粋でありえたわけではなかったようです。仏教教団が国家的な保護を受け、社会的な地位を保証されるとともに、ただ軍役、租税を免れるために剃髪出家するもの数知れず、その頽廃した生活振りは目に余るものがあったようです。道士伝変の廃仏策上奏がもととなって、
「私度偽濫僧の横行を禁圧し戒律を厳守すべきこと、京城留寺三所、天下諸州は各一所に留む。」
という勅断が下されたのが武徳９年、善導大師１３歳の時。
大師の出家が果たして何年であったのか、武徳年間の中頃、大師１０歳前後のこととも言われていますから、この仏教沙汰は少なからぬ影響をその心に留めたであろうことが思われます。
（蜂屋賢喜代先生のお話）
善導大師は、幼時において密州の明勝（妙勝ともいう）法師の弟子となり出家せられたのであって、初めは『法華経』と『維摩経』を読んでおられたのであります。善導大師の生まれられた時分は、天台の智顗大師が盛んに『法華経』を講説しておられた時分であります。また、智顗大師は晋王の請いによって『維摩経』の註書を書き著わされたりしておられた時であります。
しかしながら、善導大師は、
「助かる自分の道を得ねばならぬ。」
という切なる念願から、自分の根機に相応しない教によっていては効なきことを知り、自分の助かるべき真の道を得たいため、遂に経蔵に入って一心に念じて、手に探り当てられたのが『観無量寿経』でありました。経蔵に入って一心に念じて経を探るとは、道を求めて道を得ざる求道者の悲痛の極みであります。『観経』を得てこれを紐解いて、その中に説かれてある十六の観法を見て、
「釈尊の説き教えられたこの観法こそは、生死の迷苦より脱する真の道である。」
と、大いに喜ばれたのであります。それから、なおも高徳の方々を尋ねて教を受けられましたが、
「いよいよ道は般舟三昧にあり。」
と決定して、一生涯、手に仏を礼し、口に仏名を称し、心に仏を念じつつ、常に道を行ずる念仏三昧の生活をなせば、如来の浄土に往生できぬことはないと信じて、後には終南の悟真寺に入って数年の間、専ら観想を凝らして、遂に定中において浄土の荘厳が目前に現ずるまでになり、非常に喜ばれたことでありました。
しかしながら、静かに考えると、どうにも心に満たぬところのあることを次第に感じてこられたのでありましょう。大師は決然として終南の地を捨てて、再び求道の旅に出られたのであります。それは道綽禅師を訪うためであって、大師２９歳の時であったと伝えられています。
その頃、道綽禅師が晋陽（石壁谷の玄忠寺）に道を説いておられるということを聞いて、遥かに遠き行程をも厭わず、難渋しつつ、やっと道綽禅師の許に尋ねて行き、今日までの自分の求道心とその経過を打ち明けて教えを請われましたが、道綽禅師の『観経』のご講説を親しく拝聴せられるに及び、初めて豁然として了解できたのであり、初めて『観経』の真旨に接することができたのでありましょう。即ち観仏三昧より念仏三昧に入り、自力念仏の我執を離れて他力念仏の大道に出られたのであります。善導大師は爾後１０余年の間、自行の上にも化他の上にも、精進に精進を重ねられたのであって、その行状には勝れた点が多くありました。ただ自行化他のために『観経』の註釈を書いて、一経の真の要義を明らかにされたことは有名なことであって、これを『四帖の疏』と申します。
（暁烏敏先生のお話）
伝記によると、善導大師は非常に行業の厳しい方である。毎日何万遍かの念仏を称えられた。また『阿弥陀経』を１０万巻写されたり、浄土の絵を３００遍も画かれたそうである。また、色々の物を供養する人があったけれども、いい物は人に与えて自分は粗末なものを食べ、粗末な着物を着ておられた。それからお湯へ入られる外は帯を解かれなかった。決して横になって寝られるというようなこともなかったそうである。
また、３０年の間、目を上げて女人を見られなかった。女性を見るために心の乱れることを恐れられたのであろう。３０年の間、一心不乱に念仏しておられた。一筋にじっと向うて行かれた。無論、こういう事は、俺が真似しようと思うてやってもできんことである。
善導大師は、そうした中から托鉢に出られた。どうして托鉢に出られるのか。
「お釈迦様でさえ托鉢に出られた、末世の私のような不徳な者が、じっと家におって法施を貰うには忍びない。」
と言うて出られたのである。お釈迦様が後の者に高ぶりの心が出んようにというお心で托鉢に出られたとの心が通じておる。今頃、貰いに行く者には欲がある。善導大師が貰いに出るというところの道を行かれたことを尊く仰がれます。
善導大師のお徳を慕うて来る人たちは、大師のお話を聞いて早くお浄土に参りたいという願いから、崖から落ちて死んだり、川にはまって死んだり、光明寺の前の柳の木から落ちて死んだりする者があった。何でも見つかった者ばかりで３０人ほどあったそうである。伝記によると、善導大師も、その柳の木から身を投げて死なれたそうである。
「この身は厭うべきだ、諸々の苦が次から次と迫って止む時がない。」
と人に言うて、その柳の木の上に登り、西の方に向うて仏様に願うて、
「どうか私を摂受してください。観音様も勢至様も私を助けてください。私は正念を失いません、驚きもいたしません。どうか弥陀の法中においても、怠り退くようなことのないようにしてください。」
と願い終わって、木の上から身を投げられたということが伝記に書いてあるが、柳の木から身を投げた善導と、『観経』の疏を書かれた善導と、違う人だという説もある。しかし、善導大師の教えを受けた人の中には、浄土を願う余りに自殺をした人があったのである。
そして善導大師は『観経』の講義を書かれた。これは、『玄義分』『序分義』『定善義』『散善義』の四巻に別れておる。善導大師は、その最後の跋の文に当たる中で、「尊いお経を、私の心で解釈を施してはならない。だから私の、今、書こうと思うておる解釈が仏様のお心に叶うものであったら、どうか証明をしてください。」
と、仏様の証明を願われた。そして日毎に『阿弥陀経』を三遍読誦され、お称名を三万編称えて、真心込めてお願いなさった。すると、
「毎夜、瑞相が現われて、夢の中で一人の僧がこのお経の深い意味を教えてくださった。その教えによってこれを書いた。」
また、
「この四冊を書き上げてから、夢に金色の仏様を夜毎に拝むことができた。それで明らかに仏様の証明を得たものと思う。」
というようなことが書いてある。また、
「これは正身の阿弥陀仏の証明によって書いたものだから、一字一句も加減してはならない、疎かに思うてはならんぞ。」
ということも書いてある。随分自信の強いお言葉で書いてある。私どもは、自分の計らいで書いたものだから、「間違いがあれば直してください」という心であるが、善導大師は、すべて仏様のお指図で書いたという心があるから、一字一句も動かしてはならんということを申しておられる。
善導大師は阿弥陀様の仰しゃる言葉を直々にお聞きになったのだろうと思う。阿弥陀如来は申すまでもなく、この地球上におでましになった仏ではない。ないが、塵点の昔に御出生になったと『無量寿経』に書いてある。地上に姿を現わさない方の声が聞こえる。その仏はどういう方か。光明によってこの世界を照らされる。阿弥陀仏は人間の形をして現われてくださるのである。阿弥陀様が沢山おいでになる。そして信心をお守りくださる。そうなると阿弥陀様の声が聞こえるのだ。阿弥陀様の声が直々に聞こえる。聞こえなければ、はっきりして落ち着きが出んのです。善導大師はその阿弥陀様のお声を聞いて『観経』の講義をお書きになったのです。
（宮城顗先生のお話）
善導大師の時代には沢山の優れた高僧方が出られて、その人々がほとんど全て『観無量寿経』を註釈しておられるわけです。皆それぞれに『観経』の註釈を作っておられる。善導大師は「古今楷定（ここんかいじょう）」と言っていますが、これは善導大師自らの『観経疏』に自信を持って付した言葉で、
「古来より当時に至る一切の諸家、諸師の観経釈を根底より改め正しく決定した。」
ということです。古今、昔から今日に至るまで、つまり善導大師の時代に至るまで『観経』についての釈を作られた方々、その作られた方々の『観経』の註釈の仕方、いただき方というものを楷定する。「楷」は「真っ直ぐに立てる」という意味です。つまり今までの『観経』の見方を根底から覆されたのです。
「古今楷定」と言われる仕事の内容は幾つも上げられるのですが、その一番最初に挙げられるべきことは、それまでの諸師方は『観経』というものは、教えの通りに仏道を実践していくことのできる人のために説かれることが中心であって、ついでに、そういう教えの通りに実践もできない、教えに背きながらしか生きていけない、そういう凡夫にも語りかけられている経典であるという、「本為聖人・兼為凡夫」という抑え方だったのです。それを善導大師は『観経』において、仏法、仏陀の心は「本為凡夫・兼為聖人」だと言われたのです。即ち、
「仏法の正機は、実は凡夫なのだ。凡夫こそが仏法の眼目であり、仏陀が心を注いでおられる存在であって、自ら徳を積むことのできる聖人は、そこに兼ねて説かれているのだ。」
と言われたのです。つまり、一般の人たちは自分にできない、そういう厳しい行をつんでくださる、積んでおられる聖人にすがるのです。直接仏法の道を歩むのではなくて、自分は歩めないけれども歩んでいる人を尊ぶ、そういう姿になっております。それが「本為凡夫・兼為聖人」の姿です。それに対して、善導大師は、
「その凡夫が一人ひとり仏道の主になる道でなければ、本当に人間が救われる道ではない。凡夫こそが仏法の主、仏道の主だ。」
それは、凡夫というものが何処かにいるのではない、善導大師自身が、自分自身をそういう者として見出されたのです。ですから、凡夫である善導大師が救われた仏道こそが真の仏道だと言われるのです。この様に、全く仏道というものの立脚点を根底からひっくり返された、これが「古今楷定」の一つの大きな仕事です。
『正信偈』に「善導独明仏正意」と「善導独り仏の正意を明かせり」と言われておりますが、この「独り」という意味は、直接的には、この時代に中国において仏法の研究をされた沢山の立派な人々の中にあって「独り」という意味です。つまり、その当時多くの高僧方がおられましたけれども、仏正意、仏の正しい心を明らかにされたのは「善導ただ独りだ」ということなのです。
（宮城顗先生のお話）
定散というのは定善と散善ですが、簡単に言いますと、定善というのは、「生活を捨ててひたすら仏法を求める」ことです。心を一所に留めるということは日常生活というものを断ち捨てて、ひたすら仏法を求めていけるということでしょう。そういう定善の行ができる人というのは、それは生活的にも能力的にも非常に恵まれた人です。そして散善というのは生活のままに言うならば在家生活です。そういう在家生活のままに、その生活の中で少しでも悪を止めて善を修めていく、これが散善です。
定善を修する人も散善の人も、何れも善人です。それに対して逆悪というのは悪人のこと。「五逆」と「十悪」の者という意味です。そして善導大師は、そういう逆悪のところに自らの身を据えて仏法を問い返された。非常に極端な言い方をしますと、「本為聖人・兼為凡夫」という時には、凡夫はお情けで仏法の中に包まれるということでしょう。「兼為」というのはそういう姿です。それをひっくり返して、善導大師は、「凡夫をこそ救わんとするのが仏の本意だ」という眼を自らの具体的な自覚、身の自覚に立って明らかにしてこられた。
「矜哀定散与逆悪」定散と逆悪とを矜哀したもうのです。「矜哀」は哀れむという言葉ですが、「定散」というのは、定義から申しますと「定」というのは息慮凝心（そくりょぎょうしん）。「散」というのは廃悪修善と定義されております。「息」というのは休息、「慮」というのは慮（おもんぱか）り。これは、私どもの日常の計らいです。日常生活の中で尽くしております計らいというものをしばしやめて、そしてひたすら心を浄土に凝らす。もっと一般的には教えに心を凝らす。ですから一般的に言えば、心を教えの上に凝らすというのが「定」と呼ばれる人間のあり方です。慮り、日常の計らいというものについて、善導大師は『往生礼讃』という書物では「雑縁乱動」という言葉で仰しゃっておられます。雑縁乱動などというと、大変面倒な言葉ですが、要するに私たちの日常生活なのです。
日常生活というのは、正に雑縁乱動です。何か一つのことをしようとしておりましても、集金だ何だといいまして、次から次と、色々な来客はあるは、電話はかかるは。理屈でなしに、正に日常の私たちの生活というものが雑縁乱動だなということを思い知らされております。私たちの日常生活が正に雑縁乱動だということの元にあるものは、貪瞋諸見の煩悩が起こってきて間断するからだと言われるのです。
考えてみますと、私たちの日常生活は邪見と驕慢のぶつかり合いのようにも思われます。それぞれ自分を立場にし、そして自分は正しいと考えてお互いにぶつかり合っているのです。それから周りと比べて、常に一喜一憂する。ですからいつも心は静まらないわけです。正に乱動です。乱れ動いている。
そういうあり方というものを「雑縁乱動」と善導大師は押えておられるわけですが、そういう雑縁乱動の心をしばらく静めて、そして心を教えの上に凝らすというのが「定」です。しかし、これは、しばし休めてなどと言いましても、そう簡単に休まるものではありません。そういう慮りを休めるための一番具体的な行為が出家です。つまり日常生活そのものを括弧に入れてしまうわけです。そして、ひたすら修行の場で修行だけに時間を送る。ですから「定の人」というのは、一番徹底しては出家者。出家までいかなくても、しばしば日常を離れて、心を教えの上にひたすら凝らすことのできる人なのです。
そういうことのできない人、その人のために今度は「散善」が説かれるのです。散善は、当に乱動の心のままで少しでも悪を廃し善を修める。乱動の生活のままで、日々の生活の中で少しづつでも悪を廃し、善を修める努力を重ねていく、これが散善の機です。『観無量寿経』の散善顕行縁に説かれている散善の、一番最初に挙げてあるのは孝養父母です。つまり日常生活の中で少しでも善を積む、その善の一番筆頭に置かれているのが孝養父母。
「彼の国に生れんと欲わん者は、当に三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心ありて殺せず、十善を修す。」
こういうようにあります。第一が孝養父母、それから師長に奉事する。目上の人や先生に仕える。次に慈しみの心をもって殺さない。それから十善業を修するということが上げられております。これが「世福」、つまり世間において努め行なわれる善業です。その次には、
「三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯かせず。」
三帰というのは仏法僧に帰依する。その心を受け保つ。諸々の戒律を具足し、威儀を正しく保つ。これが「戒福」であるといわれます。そして、
「三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。」
これが「行福」です。これが三福といわれておりますが、その三福の中で一番最初の、当に世間の人々が世間において努め行なうべき善業、それは世間的な福をもたらす道、そういう世間的な福をもたらす道の一番最初に孝養父母が説かれているのです。その散善の行が大行である念仏を顕す縁であるという意味で、善導大師が「散善顕行縁」と言われたのです。
三福の行が念仏の大行を顕す縁だと言われるのは、散善を尽くすところに念仏が顕われてくるからなのです。つまり三福の行、例えば父母孝養なら父母孝養ということを熱心に勧める人というのは、実は本当には、父母孝養を徹底したことのない人なのです。悲しいかな、愛するということでも、本当に愛した人というのは、自分の愛の至らないことを必ず自覚させられているものです。だから、自分の愛に自信を持っていけるようなのは自惚れに過ぎないのです。そして、そういう自惚れの愛は必ず押しつけになる。自分の愛を相手に押しつけるようなことになるのです。しかし、本当に愛そうとすれば、文字通り独生独死、独去独来の人間ですから、つまり最後は代わって生き、代わって死ぬわけにいかないのですから、ただ念じて見守るほかないということがあるのです。ですから一番ぎりぎりのところでは、ただその人の命を念じて見守っているほかない、それしかできない現実がある。
遠藤周作さんの、
「人間は、人の前を横切らずには生きていけない。」
という言葉が思い出されます。人間が自分を大事に生きていこうとすれば、必ず人の前を横切っていかざるをえない。私が自分を大事に生きるということが、他人がその人自身を大事に生きようとすることを常に妨げ、傷つけてるという事実があります。これはもう、どれだけ身を慎んでも、どれだけ気配りをしても、免れることのできない悲しい事実です。必ず人を傷つけ、妨げている。そのことはいささかも改良されていないわけです。昔から今日まで、その事実は少しも変わらない。
しかし、私の中にそれを悲しむ心がある。そういう命の願い、生れながらの願いというものに呼びかけているのが法蔵菩薩であると言っていいかと思います。それは特別な心を開いたというのでなくて、実は人間としての本来の心を開いたのでしょう。人間の現実の中から法蔵魂を開いたのです。その法蔵魂を呼び覚ますものが光明と名号だと言われているわけです。
（宮城顗先生のお話）
どれだけ道があったとしても、それを自らの道をとして生きるということがなければ、具体的にはならないわけです。つまり、
「道は既にある。後は、お前が歩くか、歩かないかだ。」
歩いた時にはじめて、道は道となるのです。道は道として具体的になるのです。私たちは道の上にあるのですけれども、道の上に立っていることに眼を開くかどうか、そのことを信ずるか信じないかということ一つは、私に課せられているのです。常に、「この私において…」という見方が、特に親鸞聖人において貫かれている姿勢です。
つまり、「仏法、仏法…」と申しましても、どういう仏法なのかということがあります。同じ様に、仏法と言いましても、お札と護摩でかたどられる仏法があります。また、いわゆる先祖供養が仏法だという姿もあります。ですから、同じ様に仏法という言葉を使っておりましても、その内容というものは色々にあるわけです。八万四千の法門と言われますように、八万四千という多くの道が分かれているわけです。それだけ多くの法門があるわけですから、一体何をもって自らの仏法としているのかということが問われてくるわけです。ものを選び取るという時には、どこに立って選ぶのかということがあります。その立つところによって選びは全然違ってくる。言葉を換えて申しますと、どこに視点を置くのか、どこから見るのか、どこに視座を置かれたかということです。元々、どこに視座を置くかということで、そこに見えてくる世界は一変する。世界は変わるものです。私たちは世界を見ていると言いますけれども、自分の眼の高さで見ているわけです。ですから、子どもの世界は子どもの眼の高さにならないと分からないのです。子どもの眼に映る世界というものがあります。それは子どもの眼の高さから見なければ見えてこない世界です。その意味では、子どもを理解しようと思えば、その同じ視座に、同じ高さに目を据えて見なければ分からないことがある。大人の眼の高さでものを判断して、子どもにあれこれ言いましても通じないところがある。ところが、子どもの眼の高さになって見れば、全く違って見えてくるということがあります。
これは、ちょっと話が違うようですけれども、昨年の２月頃から、死にました家内の足の骨に癌が移っておりまして、兎に角、歩くのが不自由になっておりました。そういう、足の不自由な者を連れて街を歩きますと、それこそ本当に気づかなかった色々なことが見えてくるということがあるのです。健康な間は全く意識しないような階段というものが、一つひとつ、こたえてきます。そうして見ますと、街には本当に無用な階段というものが実に多いのです。いかに街が健康な者のためのものか、健康な者に合わせた構造になっているかが分かってきます。そのように、身を通してしか見えてこないもの、そういうものがあるわけです。車椅子に乗って街に出てみなければ車椅子の人の気持ちというものは、やはり分からないということがあります。道の幅とか、物が置いてある置き方とか、そういうもの一つひとつがこたえてくる。健康な時は何でもなく見過ごせることが、一つひとつこたえてくるのです。
どこに立って、どういうものとして仏法を求めるのか。そのことを親鸞聖人は「凡小愚鈍」という言葉で『総序』の文に挙げられています。「凡小」というのも「愚鈍」というのも、これはどちらも「我が身を善しと思えない者」です。つまり、いかなる意味においても、自分の力というものを頼みにできない者、自分にとって自分自身というものを頼みにできない、それが「凡小愚鈍」なる者でしょう。「自らを善しと思う心」を、否応なしに捨てしめれられている者、それが「凡小愚鈍」です。我が身を頼みにできないということは、仏法の言葉に移して言えば、
「行証がかなわない。」ということです。仏法を実践し、その実践によって悟りを開く、行によって悟りを獲得する行証の歩み、努力というものがかなわないのです。いささかも善根が積めず、修行に耐えられない。ですから、我が身を善しと思う心も持てず、身も頼めない。それが「凡小愚鈍なる者」なのです。
しかも、そのように行証がかなわないというのは、その人の能力が劣っているというようなことではない。時代によるということがあるのです。末法五濁という時代だから行証がかなわないのだと言われます。この行証が成り立たない時代を明らかにするために、『末法灯明記』の言葉を引用しておられます。
「末法の時代にあって、教えの通りに戒律を保っていると自負している人があるとすれば、それは、市に虎がいるようなものだ。」
と言われています。人が生活を営む場と虎とは、共にあるわけにはいかないのですから、「市に虎あらんがごとし」という時には、どちらかが嘘だということ。市と言っているものが市でないか、虎と言っているものが虎ではなくて猫に過ぎないのか。どっちかの場合しかありえないのです。つまり末法、末法と言ってはいるが、それは末法と言っているだけで、本当はそうではなかったのか。それとも、「俺は戒律を保っている」と言っているその人が、実は決して持戒者ではなかったか、そのどちらかなのです。
ですから、末法の時代に戒を保つということはありえないことなのです。言い方を換えますと、末法の時代に人間の心を持って戒律を保つということはできないことなのです。親鸞聖人の凡小、愚鈍の名告りの背景には、そういう、まさに行証がかなわない時という、末法の自覚があります。ですから、個人的に能力がないという話ではないのです。その時代の事実を、人間の心をもって最も深く生きる時、人間は「凡小愚鈍」という身を自覚せずにはおられないのです。言うならば、周りに満ち満ちている苦悩というもの、人々の苦悩というものに対して、全く無力な自己というものを思い知らされずにはおられないのです。
そういう時代にあって、しかも自利利他という歩みがどこで成り立つのか。もし成り立たないとするならば、どこで仏弟子と言いえるのかという問いが、親鸞聖人を貫いているのです。ですから「光明名号顕因縁」というお言葉も、ただ往生の因縁を光明、名号をもって表わされたという、おおよそ仏法をいかなるものとして選び取ったかということに関わる言葉なのでしょう。そして、このような仏法の選びは、どこに身を据えて仏法を問うているかということによって決まってくる。それが善導大師の場合は「定散」「逆悪の身」というところに身を据えられておられる。そういうことを親鸞聖人は善導大師の教えの中から聞き取ってこられた、そういう意味がそこにはあるのです。そして、それを親鸞聖人は『総序』の文に、
「凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径…」
と受け継いでおられるわけです。そこに凡小、愚鈍という言葉で、自身の身を据えた人間の姿というものを表わしておられるわけです。そして、その「凡小愚鈍」というところに身を据えて選ばれたのが、光明名号をもって語られる仏法だったのです。
（宮城顗先生のお話）
光明と名号の因縁につきまして『行巻』には、弥陀の名号は信心を生み出す原因であるから慈しみ深い父に譬え、衆生を育み疑いの闇を破る智慧の光明は信心を育てる縁であるから憐れみ深い母に譬え、
「良に知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしと雖も、信心の業識に非ずは、光明土に到ることなし。信心の業識、これ則ち内因とす。」
とあります。いまは親鸞聖人お言葉になって上げられているわけですが、この文章のもとになっていますのは、善導大師が『観経疏』において親の恩徳を挙げられているところに、「自分がこの世に生れ出るについて父を能生の因、母を所生の縁とし、そしてさらに、この父母を共に外縁とし、自らの業識を内因として生れたのである。」
と述べておられる一文です。そこに二重の因縁が説かれていますから、これを「両重の因縁」と呼んでおります。
つまり、私が生れるということについて、普通は父と母によって私が生れた、父が因であり母が縁だと言うのですけれども、善導大師は、その父と母は、私にとってはどこまでも外なる縁だといわれるのです。私の命にとって、
「父と母は外縁であって、私の命の因は自らの業識だ。」
と言われています。「自らの業識」という言葉も大変特別な言葉ですが、そのような自己の業識というものがないと、いわゆる産み落とされたというだけの自分になってしまい、そこには主体がないことになります。普通は、自らの業識などということを考えません。だから、子どもがよく、
「誰も生んでくれと頼んだ覚えはない。勝手に生んだのではないか。」
と言ったりするわけです。それに対して、善導大師は自らの業識を内因とすると言われる。自らの業識というのは、生きんとする自分自身の意思です。その私自身の生きんとする意思が生れてくる因、最も内なる因だと言うのです。これは、自分の誕生というものについて、単なる理屈を言ったり説明をしているのではないのです。自分が生れているということを、どう受け止めるのかが問題にされているのです。私が生れていることを、産み落とされた者として、つまり、
「頼んだ覚えはない、勝手に生んだのではないか。」
と言いながら私の命を生きるのか。そうではなくて、生きんとして、つまり自ら生まれ出た者として、生まれていることに責任を持つのか。このように、自分が生まれているという事実をどう生きるのかということを問うているわけです。この問いに対して善導大師は、
「自らの業識、私自身の生きんとする意思が、私の命の一番内なる因だ。」
と言われるわけです。その言葉遣いを、いま親鸞聖人はお借りになって、
「名号は能生の因であり父だ、それから光明は所生の縁で母だ。」
と、光明名号について述べておられるのです。ですから、この光明と名号の因縁の成就によって、私たちの助かる法が成就しているのです。光明名号をもって道は既にあるのです。あえて言えば、名号というのは仏には要らないことです。なくても不自由しない。名はあくまでも仏が衆生に自らを与えるための道です。元々名というものは、自らを相手に伝える道でありまして、その意味では、私の名というのは、あくまでも人のためにある。人に向かって名告っているものなのです。ですから「嘉号」、つまり名号というものは、あくまでも衆生に付属されたものです。弘誓、光明というものをもって仏意というものがおもんみられている。そしてそれが、王舎城の事件というものを通して、人間の生活の上に具体的になってくる。それが本願の嘉号、名号です。それと難信金剛の信楽、つまり信心です。この四つの言葉で親鸞聖人は自らの仏法というものを明らかにされている。
この挙げ方は非常に厳密でありまして、弘誓、光明というものは、これは仏にあるものです。仏の本願であり、仏の光明です。それをひそかにおもんみられる。そしてそれが人間の苦悩というものを通して、悲劇を通して、人間の道になる。つまり名号と信心、これは人間の上にあることです。弘誓と光明、それはどちらも仏に属しますが、これは特に本願は因位、光明は果上。本願を成就された仏のその果徳が光明です。そこに因果が整えてあります。それに対して、光明、名号というのはどちらも果です。本願成就の光明であり、本願成就の名号です。果ということは、私の上に成就した仏法ということです。私の上に成就した本願です。その、私の上に成就した本願というものは、光明と名号という姿をとる。そのように善導大師と親鸞聖人は光明、名号、本願、信心をもって明らかにされる仏法、それを真宗として仰がれた、そのような仏法を選び取られたということがあるのです。
（仲野良俊先生のお話）
因縁ということが非常に大事なのです。仏教では自力のことを分別といいます。他力のことは因縁という。
善導大師は、他力を因縁として明らかにされた。光明名号、みな他力でしょう。それは何かというと因縁です。一番確かなものは因縁。我々がいくら計らったって、計らいなどというようなものは間に合わない、もう因縁ほど確かなものはない。
例えば、小春日和の午後なんかに講演会に出席して、そこでコックリ、コックリ居眠りしている人がよくありますね。この人は何も講演会で寝てこようと思って来たわけではない。今日はしっかり目を開いて聞いてこなければならないと思って出席したのでしょう。しかし、それは計らいです。因縁が催すというと、コックリ、コックリ…、グッスリお休みになる。腹はふくれたは、ポカポカ暖かいわというと、上まぶたと下まぶたが仲良くなる因縁が催すわけです。そんなわけで、因縁ほど確かなものはない。分別は間に合わない。
その間に合わぬ分別を間に合うと考えている。分別を止めよというわけではありません。我々は色々分別するけれども、分別の通りになるのではない、因縁の通りになるのです。計らっていたらきりがない。
「されば善きことも悪しきことも、業報にさしまかせて、偏に本願をたのむ…。」
ということしかないわけです。それが他力だと、こう仰しゃいます。「業報にさしまかせる」ということは、分別を捨てるということです。「因縁のままに」ということです。目覚めるのも因縁によるのです。いくら目覚めたいと思っても、因縁がなければ目覚めることはできません。因縁というのは、ものが在るようにあり、事が起こってくる一つの法則です。
分別というのは、これは全く無法則です。勝手なことを思っている。因縁は、きちんとした法則です。だから自分の目覚めるのも法則です。迷っているのも、やはり因縁によって迷っているのでしょう。迷っているのも、やはり法則なのです。迷っていることを無茶苦茶と言うけれども、別に無茶苦茶に迷うのではない、迷うようにして迷っている。迷うにも法則がある。迷うのも因縁です。迷いの因縁。苦しむのも因縁による。
苦しみの因縁のことを「十二縁起」と仏教では言います。迷うには迷うようになっている法則がちゃんとあるのです。迷うことも因縁だから、目覚めるのも因縁による。だから迷うようにしていたら、いつまでたっても迷うし、迷いを翻すようにしていれば、そういう因縁に遇ったら、否応でも目覚めることはできる。すべては因縁による。迷うのも因縁なら、目覚めるのも因縁。因縁だけが人間を本当の意味で動かしている。だから因縁だけが力がある。分別というものは、これは力がない。
いま善導大師は光明名号というものが因縁であるということを明らかにされた。我々の助かる唯一の因縁、それは阿弥陀仏の光明と名号である。十方に諸仏はおいでになる、どの諸仏方もお悟りはみな平等だが、特に阿弥陀仏を我々が偏にたのむ理由は、阿弥陀仏には因縁がちゃんと備わっているからなのです。諸仏にはこの因縁というものがない。悟りはあるけれども、我々を助ける因縁は、諸仏には備わっていない。阿弥陀仏だけに因縁があるということを『観経』を通して明かにされたわけです。
『観経』のお言葉を通して、善導大師は、光明は縁、名号は因と、こういうふうに言われた。親鸞聖人は、光明のことを悲母、名号は、名号といわずに徳号というておられるけれども、徳号の慈父といわれる。名号というものは、父ですから厳しいのです。名号は叱るのです。
「汝自身を見よ。」
「また間違っておるぞ。」
といって叱るのは名号です。我々はいつも名号に叱られていく。名号はありがたいというようなものではない。名号というものは実に厳しいものなのです。だから本当を言うと、念仏は余り私も好きでない、叱られてばかりいるから辛いのです。けれども、その厳しさは、愛情温かい厳しさで、冷たい厳しさではありません。それで「慈」という字がついているのです。光明というのは母です。これは衆生を包む。衆生を包んで、包んだ衆生を叱る。そのことによって我々は完成していく。外を叱るのではない、内なるものを叱る。そこには如来の痛みがあるのです。外のものを叱るのなら、ただ黙っているというだけの話。内なるものを叱る。そこには、親が子を叱るような心があるのです。他人を叱っているわけではないでしょう。摂取した者を叱っている。我が内なる者を叱っている。そこには、如来の非常に深い痛みというものがあるわけです。この二つがそろっているところに、阿弥陀仏が諸仏と全く違う理由がある。
善導大師は、我々が阿弥陀仏一仏を念ずるということの理由は、偏にここにあるのだということを示して、名号が因であり、光明が縁であることを明かにされた。これが善導大師の非常に大事なお仕事の一つなのです。定散と逆悪とを矜哀して、光明名号が因縁であるということを明かにされた。これを、「光明名号の因縁」と読んだら受け取りにくい。
「光明名号の因縁たることをあらわしたまう」
と、こういうように読まなければならないと私は思います。