曇鸞大師の教え〜他力ということ(桐渓順忍和上のお話)

曇鸞大師は、天親菩薩の『浄土論』に注釈を施して『往生論註』を2巻作り、阿弥陀如来の浄土は、その出来上がる院も果も、みな悉く如来の誓願によってできあがったことを示し、さらに、それは全く衆生を救済するためであると説かれたのであります。
天親菩薩の『浄土論』は、浄土願生の処としては非常に尊いものではありますが、浄土往生は如来の本願力、他力によるものであるということは、曇鸞大師の『往生論註』によって明らかになったのであるから、親鸞聖人のように「仏力、他力によって往生する」ということを力説するには『往生論註』こそ最も大切なものであります。『浄土論』では、「一心の信心によって浄土に往生する」と説いてあっても、その一心は自力であるか他力であるか、まだはっきり示されていないのであります。それを「他力の一心」だと明らかにされたところに『往生論註』の製作の功があるのであります。
阿弥陀如来の浄土に往生することも、浄土に往生した後に迷いの世界に還って来て衆生を救済することも、みな阿弥陀如来の他力回向によるものであります。
『浄土論』の文の意味では、礼拝、讃嘆、作願、観察、回向の五念門の行によって、近門、大会衆門、宅門、屋門、園林遊戯地門の五果門の果を得、五念門と五果門との、因によって果を得るという二重の因果が説かれてあり、その五念門の第5門の回向門が浄土往生の時の回向であるから「往相回向」といい、五果門の第5の園林遊戯地門は穢土に還り来て衆生の救済を行ずるのでありますから「還相回向」というので、共に「菩薩が成仏するための利他、他人を救い他人に利益を与える行である」と説かれてあるのであります。それを親鸞聖人は、曇鸞大師の『往生論註』の「他力釈」によって「如来回向」となしたもうたのであります。






難行の自力と易行の他力(桐渓順忍和上のお話)

菩薩が不退の位に至るのに二つの道があって、一つは難行道であり二つは易行道である。その難行道といわれるものは、悪い世の中で、仏のいない時代に不退の位に至るということは非常に困難なことである。その困難はいくつも考えられるが、要するに、衆生の自力によるもので、仏力他力の助けがないからであり、易行道というのは如来の本願を信じ、仏力他力によって往生して不退の位に至るからであると示してあります。
このことは、非常に注意すべき問題を含んでおります。表面的な意味からいうと、難と易は、苦と楽との相対であって、苦しいから難、楽だから易という意味であります。もちろん、それでも一応の価値の批判にはなりますが、苦しい、楽であるということだけでは、取るか捨てるかを簡単に決められないものがあります。苦しくてもやらなければならないものもあり、楽であり楽しくはあるが捨てねばならぬものもあります。ただ難易というだけでは、十分にその価値の尊さを示すとはいえないものがあり、かえって価値の低さを示すことさえありえるのであります。
そこで、曇鸞大師が難行といわれるのは、悪世であり、仏のましまさない時代に、凡夫の自力で不退の位に至ろうとするから難であり、仏力他力の助けがあるから易だと。難と易の内容を変えたところに大きな意味があるのです。また、その他力の程度については『往生論註』の終わりに、他力によって往生することを明らかにするために問答を設けて、
「問うていわく、何の因縁があって速やかに仏になることができるのか。答えていわく、五念門と五果門の行によって自分の利益、他の衆生を救う利益が成就するからである。」
と示しておいて、
「しかるに、明らかにそのもとを求めたならば、阿弥陀如来の他力によるからである。」
と示し、
@    衆生の往生が他力によらないものなら、四十八願は必要のないものになるではないか。
A    第十八願についてみるに、十念念仏して往生を得るというが、もし往生ができたら、浄土に住したものは 再び迷いの世界に還って来ないから速く仏になる。
B   
第十一願には、浄土に往生し た者は必ず正定聚に住する、正定聚に住するから必ず仏になると示されてある。必ず仏になるのだから、小乗の果に堕ちるようなことはない。だから速く仏になる。

C   
第二十二願によると、浄土に往生したものは、普通の菩薩の修行方法によらないで、いくつかの位を飛び超えて、すぐに仏になる菩薩の最高の位に至ると説いてある。

と示して、四十八願の意味からいえば、速やかに成仏するのは仏願力によるものであると示されるのであります。

しかも、その仏力他力がいかに大きなものであるかを、その次に、例をもって示して、

「自力というのは地獄などに堕ちるのを恐れて戒律を守り、善を修して神通を得て、自由に空中を飛行して、思う所に遊ぶことができるようなものである。他力とは、人間の中でも一番愚かな劣夫が馬の中でも最も愚かなロバに乗ったのでは、人も馬も無能力なものであるから、これでは空中飛行は全く不可能である。しかし、その劣夫がロバに乗ったのでも、転輪王の行幸に従っていくと虚空に乗じて四天下に遊ぶことができるようなものである。」
と示されてあります。この意味は、空中に遊ぶことの不可能な劣夫が、そのように遊ぶことができるのは全く転輪王の力であることを表わして、浄土往生の全体が他力によるという意味を明らかにしたまうたものであります。
だから、曇鸞大師の説かれた他力とは、少しばかり力を加えるというようなものではなく、衆生の力は少しも加えず、全部が阿弥陀如来の願力によることを示したものであります。



往相と還相(桐渓順忍和上のお話)

往相回向、還相回向ということは『浄土論』および『往生論註』の文章では、衆生の行う回向であると示されてありますが、親鸞聖人は共に阿弥陀如来の回向とされ、その往相回向の中に浄土真宗の教・行・信・証の全体が含まれておるものだと説かれてあります。すなわち『教行証文類』の『教巻』の初めに、

「謹んで浄土真宗を案ずるに二種の回向あり、一つには往相、二つには還相なり。往相回向について真実の教行信証あり。」

と示されてあります。だから、浄土真宗は如来の往相、還相の二つの回向の他はなく、真宗の教・行・信・証は全く往相回向の内容を詳しくしたものであります。

しかし、回向が二つあるのではなく、南無阿弥陀仏の名号を回向されるところに二つの回向の意味があるのであります。『正像末和讃』には、

「南無阿弥陀仏の回向の

恩徳広大不思議にて

往相回向の利益には

還相回向に帰入せり」

と示されてあります。
また、「この世で衆生救済の活動をすることを還相回向」と言う人もあると聞くが、他人の上に還相回向を見ることは許されるかもしれませんが、自分自身の上にそれを見ることは、親鸞聖人の教学では許されないもののようであります。それは、親鸞聖人は、「自身の上に善根が現れてくださるのも如来の回向である」と感じておられたのであります。『歎異抄』に、

「親鸞は弟子一人も持たず候う。その故は、我が計らいにて人に念仏申させ候らわばこそ弟子にても候らわめ。弥陀の御催しにあづかって、念仏を申し候う人を我が弟子と申すこと、極めたる荒涼のことなり。」

と言って、弟子一人も持たないとも申されております。この意味からいえば、たとえ他人に法義を伝えるようなことがあるとしても、それは如来回向の名号の活動であって、私の行じたものではないのであります。
また、言葉の意味から言っても、浄土に往生した後のことが還相といわれるべきで、浄土に往生する私の上に如来回向の名号が働いてくださって、それが他の人を信心に導くことがありましても、それは他を化益する如来の活動でありますから、還相回向というべきではないでしょう。

如来回向の名号に他の衆生を教え、化益を与える活動があるということと、還相回向ということは、一応区別して考えなければならないものであります。



報土の因果(仲野良俊先生のお話)

浄土のことを報土という。

浄土ができあがるもとには本願があります。浄土建立のために法蔵菩薩は四十八願を建てられます。本願という願を起こす、願を起こして、そこに願行というて、願を実現するためには、やはり行がなければならない。それを実現するための行がないときには願が実現しないのです。法蔵菩薩が本願を起こされて、その本願を実現するために、いわゆる兆載永劫の修行をされた。これは何をなさったかというと、「六波羅蜜の行」であるとお経には出ています。天親菩薩は、

「これは五念門の行だ」

と抑えておられる。願を実現するために実践がなされた。行は実践です。その願と行によって現れた世界がお浄土です。それを「願と行に報いて…」という言葉を使う。難しい字を使うなら、これを「酬報」という。願に基づいたところの行、それに報いて現れた世界が浄土だというので、それで浄土のことを「報土」ともいうのです。報土ができあがったのは、

「本願によって報土というものができあがったのだ。」

ということです。

我々の場合でも、やはり報いを受けているわけです。しかし、我々の場合は、願ではなくて欲なのです。願は純粋ですが欲は不純なものです。都合のいいことは好きで、都合の悪いことは嫌いな根性です。ですから、欲の場合には行にはならないのであって、これを業という。そして報いを受けるのを業報という。業の果報を受ける。だから、私たちの住んでいるのも、やはり一種の報土なのです。これは穢土という。業に報いた報土なのです。罰が当たっているような世界に住んでいるわけです。

報土のできたもと、それは願です。そして、それができあがった報土の働き、その両方を報土の因果という。それらすべてが本願によるものだから、それを「誓願なりと顕す」といってあるのです。報土の因果といっておられるが、因の方はもとは本願。本願が行ぜられたことによって浄土が実現した。その実現した浄土というのは、我々の往生に応えているのです。浄土はただ浄土に応えたのではない。我々の往生という問題、それをものの見事に浄土によって応えられた。

曇鸞大師が天親菩薩の『浄土論』を解釈される時に『無量寿経』に照らして解釈される。『無量寿経』には、いわゆる上巻と下巻、上下2巻があるのです。上巻の方には、

「浄土がどうして出来上がったか、出来上がった浄土はどういう働きを持っているか」

そういうことが説いてあるのです。だから、上巻の方は如来の浄土について、その因果を詳しく説いてある。そして下巻には、

「その浄土が我々の大事な問題である往生に応えている」

ということが明らかにしてある。今度は、我々の大事な往生の問題。いかにすれば、我々がその浄土に往生することができるか、そういう問題です。できあがった浄土は、すでにもう、我々の往生の問題を余すところなく応えている。「さて、我々が、いかにしてそれを切り開いていくか」という問題が説かれているのです。

つまり、上巻の方は、如来が人間を助ける働きについて述べられている。下巻は、それに基づいて、人間が助かっていくということが明らかにされている。とにかく、ものの見事に人間の救いがはっきりと打ち出されている。余すところなく応えられている。そういう点で、「真実教だ」と親鸞聖人は仰ったのです。それがつまり報土の因果という場合の因果です。報土の因は本願、果もまた本願というものを我々の上に実現する、そういう働きが一つあるのです。だから、因も果も本願。それが「報土の因果は誓願なり」ということです。

そして、

「できあがった浄土はどんな働きを持っているか。」

というけれども、浄土の働きといえば、それは本願を衆生に実現する働きなのです。それ以外にはない。その中に、我々の衆生の因果もちゃんと含まれているということです。すべては本願である。浄土の因も果も、すべて誓願に基づく。因は実践が因です。果は実現。どこへ実現するか、本願がどこへ実現するかといえば、衆生の上に、私たちの上に本願が実現する。それが浄土の働き。だから「浄土の行」といいます。浄土の荘厳の行ではないのです。浄土が働く。それで浄土の行。『教行証文類』に、そういうことが出ているわけであります。



他力回向(仲野良俊先生のお話)

南無阿弥陀仏も一つの回向だ。仏の心がこっちへ向いてきている。仏の心が我々迷いの衆生の上に振り向けれられている。これを親鸞聖人は「南無阿弥陀仏の回向の・・・」といわれます。これはまたいうなら、「如来回向」です。如来の回向によって、我々の往相回向が成り立つ。如来の回向によるところの、我々の往相、還相、それが浄土真宗。

そこで、法然聖人は「不回向」と仰っている。面白いことを言われる。「回向は要らない」と言われるのです。それまで、回向というのは一生懸命如来さまを拝んだり、あるいは功徳を積んだりして、それを仏さまの方へ振り向けることを言っていたのです。

「菩提回向」といって、仏さまの悟りを得るために、一生懸命拝んだり、お経を読んだり、あるいは功徳を積んだりして、それをみな振り向ける。それを「回向」といった。ずうっと、そういうのが伝統だったのです。よく、先祖へ何かをしてあげることを「先祖に回向する」と言うでしょう。「お経を先祖へ回向する。」と言うでしょう。浄土真宗は「お経を先祖へ回向する」などということは言いません。お経は、我々に回向されたもので、いただくしかない。ところが、浄土真宗以外の、聖道門の教えでは「仏に回向する」という。どうしてもそういう考え方が抜けないのです。人間から仏へ回向するという、そういう回向です。

親鸞聖人の考えている「回向」はそんな回向ではない。それによって人間が成り立つような回向です。我々の回向に先立って働いている回向です。それを「本願力回向」と解釈された。法然聖人は「回向は要らない」といわれた。「不回向」です。

「お念仏は仏さまに回向するものではない。仏さまにお念仏を回向するなどというのは聖道門の考え方、自力だ。そうではない。だから不回向だ。お念仏は仏さまに振り向けるものではない。」

そう仰ったです。それなら「どういうものか」ということは、どうもそこは、まだはっきり言い切っておられない。ただ消極的に、否定的に言われただけです。法然聖人がそれを仰らないのは、そう言える基に触れておいでにならなかったということがあるのでしょう。

そこにやはり親鸞聖人がお出ましにならなければ浄土真宗にならないという問題が一つあったのだと思います。

親鸞聖人は「如来回向」と言われる。法然聖人は「不廻向」と言われる。その言葉だけでは言われていることがちょっと分かりません。「聞其名号」とありますが、「南無阿弥陀仏は聞くのだ」と。どこにそんな言葉があるのかといえば、『無量寿経』の下巻の最初に出ています。「本願成就の文」というのですが、この上に真宗は成り立っているのです。四十八願の第十八願の上に真宗が成り立っているのではないのです。それは浄土宗です。そこはハッキリしておきましょう。

第十八願、至心信楽の願、あれを基礎にして成り立っているのは浄土宗です。親鸞聖人の浄土真宗は本願成就文の上に成り立っている。ここに大事な回向という言葉がある。本願成就の経文は、

「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。彼の国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て、不退転に住す…。」

こう言ってある。ここで「至心に回向したまへり」と親鸞聖人は読んでおられます。これは聖人お独特の読み方です。こんな読み方をした人は他にはないのです。『無量寿経』を読んだ人はたくさんある。善導大師も法然聖人も読んでおられる。けれども、「至心に回向したまへり」とは読んでいないのです。「乃至一念までも至心に回向して・・・」と読んである。

「回向して」というと人間が回向することになる。「回向したまへり」というのは、仏が回向しておられる。そこが全然違う。今、親鸞聖人は、これを読み抜かれたわけです。「至心に回向したまへり」と読まれたのも、曇鸞大師の『往生論註』の示唆というか、指南というか、促しによってそういうことに気がつかれたのでしょう。

同時にまた、「至心に回向したまへり」と『無量寿経』が読めた。その目をもって再び、また『往生論註』を読み返された。さらにそれの基であるところの『浄土論』の「本願力回向」を「如来の本願力回向」と読み抜かれた。そういうことがあるのです。

如来の回向によって、我々の往相回向が成り立つ。我が身の姿が思い知らされて、そこに大きな一つの転回が起こる。いわゆる「回心」です。そこにまた方角というものができあがって、如来への一歩一歩が始まっていく。それが今ここで言われる往相回向です。

そして、如来回向のことを曇鸞大師は「他力」と言われる。親鸞聖人は「如来回向」と言われる。言葉は違うけれども同じことです。曇鸞大師は「他力」あるいは「仏力」、仏の力と言われます。その仏の力というのは、どういう状態で、どういう働きであるかというと、回向という働きをしておられる。人間に喚びかけ働きかけて、人間を自覚させる、自分の姿に思い知らされる。それが如来回向の働きです。それが他力、その他力によって往相回向も成り立ち、また、還相回向も成り立つのだということなのです。



往相回向(仲野良俊先生のお話)

大事なのは「回向」という言葉です。これは浄土真宗の生命といってもいい。この言葉を抜きにしたら、浄土真宗は成り立たないというほどのものです。もし「浄土真宗はどういう宗教か」と問われたなら、私は「回向の宗教だ」と言いたいくらいです。

この「回向」ということを最初に言った人は天親菩薩です。それから曇鸞大師のところで、また「回向」が出てくるのです。このお二人にだけ「回向」という言葉がある。親鸞聖人が「浄土真宗は回向の宗教だ」ということをハッキリと押さえられたもとにあるのが、やはり、この天親菩薩と曇鸞大師です。このお二人によって真宗の要がハッキリした。「回向ということが浄土真宗の要だ」とハッキリされたのは親鸞聖人ですけれども、天親菩薩、曇鸞大師のお二人が「回向」と言うことに触れておられることが手がかりになった。

天親菩薩のお言葉としては「本願力回向」という言葉がある。これは『浄土論』の終わりのところに出てきます。これも、天親菩薩だけが仰った言葉なのです。「本願力回向」などということはどこにでもあるように思うのだけれども、そうではない。ここにしかないのです。ところが、天親菩薩の場合、「回向」というのは、どうもまだ親鸞聖人のようにはハッキリしていないのです。『浄土論』で、この「回向」という言葉の出てくるのは五念門のところです。その終わりに「回向」という言葉が出てくる。

「礼拝」、拝む。

「讃嘆」、仏をほめる。

「作願」、願いをもつ。

「観察」、よく見極める。

そして「回向」、それを衆生に振り向ける、その功徳を衆生に与える。

そういうのが「回向」です。自利利他ということから言えば、「回向」というのは自分の積んだ功徳を衆生に与える、振り向ける。その自利利他ということを満足すれば浄土に生まれることができる。天親菩薩は、そういう5つの実践を菩薩どうとして説かれたのです。だから、この場合の回向は、結局、菩薩の本願力回向です。そこはまだ「如来回向」というようなところまでハッキリしていません。

ついで、曇鸞大師は、その「回向」を二種に分けられた。『往生論註』の中で、天親菩薩の回向を取り上げて、

「回向というものには二種類ある。一つには往相、二つには還相」

と、こういうふうに二つに分けておられる。「還相回向」というような言葉がはじめて曇鸞大師によって使われたのです。ただし、曇鸞大師でも、まだ、そうハッキリとはしていない。それをハッキリ汲み取った人が親鸞聖人なのです。

我々は穢土にいるわけです。穢土の一番どん詰まりは三悪道です。三悪道のどん詰まりは地獄、穢土の上方は人・天です。我々は人ですから、穢土には居るけれども、まだ三悪道ではない。そこで、何か一つの方向というものが問題になるのです。大概の人間は、仏の目からご覧になると、地獄の方を向いて歩いているらしい。これを「流転輪廻」という。「惑」「業」「苦」の三道といいまして、我々は迷い心を起こすでしょう。それが惑です。惑というのは煩悩です。迷って、思わなくてもいいことを思う。とんでもないことを思う。迷い心を起こしては業を作る。発言したり行動したりする。業の結果苦しむ。苦しんで、また迷う。これを三道といいまして、ピッチリ、行く所へ行くというのが「道」です。これには例外がない。それで苦しむのです。業を造っては苦しむ。苦しんでまた迷う。そして業を造る。また苦しむ。こういうことを繰り返してグルグル回っている。しかも、これは同じところを回っているのではないのです。だんだん苦しみが深まる。だんだん苦しみの世界へ近づいているのです。

仏の目からご覧になれば、人間の姿はそういうものなのですが、我々は中々そうは思わない。流転というようなことを思わず、かえってそれが発展なのだと思っている。とんでもない話です。仏の目、それが人間というものを見抜いたところの智慧です。人間の本当の姿を見抜いた智慧が言葉になっているのが「南無阿弥陀仏」なのです。だから、「智慧の念仏」という。智慧というのは、ものを見抜く力のことですから、念仏に照らされるというと、人間の本当の姿がハッキリするのです。そうでなければ自分で気がつくということはありません。お念仏は鏡です。人間というものを見抜いた智慧の鏡、それが南無阿弥陀仏です。

具体的には、それは、我々が教えを聞くという形で受け取っていくのです。教えを聞くということは、全部、南無阿弥陀仏のいわれですから、念仏をいただくということは教えを聞くということになる。「聞其名号」といって、「聞く」以外にない。教えを聞くことによって、自分自身の姿がハッキリしてくるのです。「とんでもない方向を歩いておったな」ということにハッと気がつく。それが大事なのです。

そういう我が身の姿を照らし出してくれる。それが南無阿弥陀仏が働くということなのです。だから、南無阿弥陀仏の働きのことを「光明」とも言います。光明はどういう働きをするかというと、私というものを知らせるという働きをする。我が姿を思い知らせるという働きが南無阿弥陀仏の働きです。それが光明なのです。そのことによって、初めて人間はこういう方向に歩いていたということに気がつくのです。とんでもない方向に歩いていたということに気がつくのです。全くお浄土に背を向けて歩いている、だんだん底の方へと行っている。そういう自分の姿が教えを通して、南無阿弥陀仏をいただくことを通して思い知らされる。それが「聞其名号」です。我が身が思い知らされる。思い知った心を信心という。

「聞其名号、信心歓喜」

「聞」の次に必ず「信」というものが出てくる。「聞」のところに成り立つのが「信」です。その時に、一つの大きな転回が起こるのです。人間とはそういうものです。

例えば、道を何気なしに歩いているでしょう。そういう時、突然、

「あっ、逆さまに来ておった。」

と、ハッと気がつくことがある。

私はこのごろ、月のうちに5回くらい新幹線で東の方に行っています。ところが、たまに新神戸とか姫路とかへ行くことがある。ところが、うっかりしているのです。いつもは東京行きのプラットホームへ行くものですから、博多へ行くプラットホームでなければならないのに、自分で気がつかないのです。東京行のプラットホームへ向かって歩いている。一生懸命階段を上がっている。途中でハッと気がつく、

「こらいかん、逆さまに来ておった。」

それで、また下へ降りて行きますが、面白いものです。

ハッと気がついた途端に足が回ります。自覚の力というのはえらいもので、転回を起こしてくるのです。道でもそうだと思います。何気なしに歩いておって、「これは反対の方向を向いているな」と気がついた途端に足はクルッと回っています。気がついて、それでも、2歩も3歩も4歩も…と歩くのはどうかしています。もう、気がついた途端にクルッと足が向く。つまり、そこに転回が起こる。「逆さまに歩いていた」と気がつくことが大事なのです。これが分からなければ転回は起こりません。自覚には必ず「回」が起こる。こういうのを「回心」という。そこに転回するとともに、今度は逆の方向に向かっての歩みが始まる。これを「向」という。それで「回向」なのです。

三悪道に向かって歩いていた足が、浄土に振り向いて進められてくる。それを「往相回向」という。浄土へ行くという意味です。これを往生というのです。往生というのは往相回向ということ、そういうふうにハッキリと親鸞聖人の使っておられる言葉で押さえておかないと、往生というのは、何か「息の切れたことだ」などと考えるのです。「真実の教・行・信・証というのは浄土への道です。浄土への道行き、

「そこに教あり、行あり、信あり、証あり。」

ということを、そういうことを言っておられる。

この往相回向ということについては、曇鸞大師の教えに示唆を受けられたのです。曇鸞大師はこのようなことまではハッキリ仰らなかったけれども、やはり「回向」を往相と還相に分けられたということは、非常に大きな功績があった。曇鸞大師の指南を通して、はじめて真宗というものが確立したのでしょう。



還相回向(仲野良俊先生のお話)

「往還の回向は他力による」

と、「往還」とありますが、「往」というのはお浄土へ向かうということです。それから、「還」は私たちがお浄土へ向かうと、お浄土の光をいただくことができる。その光を一つに力にして、また逆に、いわゆる生死の世界へ、穢土といってもいいですが、そこへ悠々と身を投げ出していける。浄土を得たことによって浄土の光をいただく。浄土の光をいただくと、それを力にして迷いの世界へ身を投げ出して、喜んで苦労ができるということでしょう。これを「還相」という。往相は往く相、還相は還ってくる相。お念仏をいただくところに、この二つが成り立ってくる。それが浄土真宗です。

「謹んで浄土真宗を案ずるに二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。」

二種の回向がある。一つは往相回向、それから還相回向。浄土へ向くのを往相というのです。これをお経では「往生」という。即得往生。ところが、そのお浄土へ向くというと、今度は浄土の光が差してくる。その光が力となるのです。そして、悠々と言うか、明るくと言うか、迷いの世界に身を投げ出して苦労ができる。これが還相です。この二つが成り立つのが浄土真宗だと。

さて、還相回向ということの基も、もちろんお経の中にあります。還相回向という言葉はないですけれども、

「生死の世界に身を投げ出していけるような力を与えてやりたい。」

というのは仏さまの願いの一つです。俗に四十八願と言っておりますが、その22番目です。第二十二願には、

「いわゆる生死の世界、苦労の多い世界に悠々と身を投げ出して、明るく苦労していけるような、そういう心を与えてやりたい。」

と誓われている。それを曇鸞大師が見つけてこられて、還相回向ということを言われた。そこで、この還相回向というのは、生死の世界、いわゆる迷いの世界、苦労の絶えぬ世界、そういう世界へ身を投げ出していくということですから、やはり一つの生死の形を採るわけです。本当に助かったということはどういうことか。本当に助かったということは、

「助からない世界に身を投げ出していける。」

ということが本当に助かったということだと、そう言われるのです。「苦労がいやだ」というのだったら、これは助かったことにはならない。「どんな苦労をしてもよい」というのが本当に助かったことです。

例えば、冬、コタツなんかに入っていますと、外へ出るのが寒くてどうにもならん。なかなか寒い所へ出られない。寒い所へ出られないというのは、あんまり身体が温もっていないということでしょう。今は各家庭に風呂がありますから、あまりそういうことを感じませんけれども、昔はよく銭湯へ行ったものです。冬の寒い時に銭湯へ行って、

「寒いから、うんと温もろう。」

と思って長いこと湯に入って、よく体を温めてから外へ出る。風呂上りに冷たい所へ出るのですけれども、その時には、何か、冷たさが苦になりません。かえって気持ちがいいような感じさえします。それは身体がよほど温かいからでしょう。身体が本当に温かければ、少々冷たい世界へ出かけて行っても、どうということはない。何か、かえって快いものを感じます。

それと同じなのです。本当に助かったら、本当に助かったというのが往相回向ですが、本当に助かったら、その力で助からない世界、苦労のつきまとう世界、そういうところへ明るく身を投げ出して、そして喜んで苦労ができる。そうなってこそ本当に助かったのだ。そういうことが教えられているのです。だから、助からない世界へ悠々と身を置いていけるのは、助かった一つの利益なのです。助からないままに、そんな救からない世界へ出かけていくわけには行きません。逃れたくて逃れたくて仕方がないのです。本当に助かるというのは、逆に、生死の世界へ身を投げ出していける。

仏教では、昔から生死というものには二種類あると教えられています。一つは「分段(ぶんだん)生死」もう一つは「変易(へんやく)生死」。

「分段生死」というのは「よかった、悪かった」「よかった、悪かった」と、いつもキリキリ変わって続かないのを言うのです。切れ切れになって続かない。そして苦労に振り回されて泣き言を言ったり、あるいはまた、愚痴をこぼしたり、恨み言を言ったりしながら生きているようなのを「分段生死」という。それから「変易生死」というのは、同じ生死なのだけれども、意味が変わってきたというもののことです。生死には違いない。やはり苦労がつきまとうのですけれども、意味がちょっと違ってきた。そういうのを「変易生死」というのですが、今いう還相回向というのは「変易生死」のことでしょう。「分段生死」なら一刻も早くここから逃げ出したいのです。そうではなしに、還相回向は喜んで生死の世界へ向かうというのですから、これは「変易生死」の方だと思います。

かねがね、「生死に二種あり。一つには分断生死、二つには変易生死」何か、どうもそこのところがなかなか合点がいかなかったが「うどん」を食べながらえらいことを思い出した。つまり、私はその時にこう思った。

「素うどんに二種あり。一つには分断素うどん、二つには変易素うどん。」

これ、どうですか。「素うどん」を食べる人に二種類あるのです。それは何かというと、一つは本当に「うどん」の好きな人。だから、天婦羅を入れたり卵を落としたりしたら、もう、「うどん」の味を台無しにしてしまう。だから「素うどん」が一番いいのだと。そういう人が「素うどん」を食べます。今、この人がそれを食べている。それが「変易素うどん」です。

「素うどん」を食べる人がもう一種類ある。それはお金のない人。これはやむを得ず食べている。こちらは「分段素うどん」です。同じ「素うどん」でも、だいぶ違うのではないですか。一方は「素うどん」を喜んで食べているのです。金がないから、やむを得ず食べているのとはちょっと違います。こちらは泣き泣き食べている。前で「天婦羅うどん」を食べている人を恨めしそうに睨みながら「素うどん」を食べて、

「ああ、情けない。」

と愚痴を言いたくなるような心で「うどん」を食べています。両方とも「素うどん」には変わりはありません。「素うどん」は何にも変わらない。「うどん」好きの人だからといって、別に「素うどん」の値段が高いわけでもないし、お金がないから「素うどん」しか食べられないといって、負けてくれるわけでもない。全く同じ「素うどん」です。けれども、その味は全然違います。

分断生死と変易生死の場合もこれと同じです。人生の苦労の味が違ってくるのです。喜んで生死の世界に身を投げ出す。それが還相回向です。全然意味が変わってくる。言うならば、苦労の味が変わる。そこには苦労を通して、ええも言われない一つの味わいというものが出てくる。人生の味わいです。

親鸞聖人は、お浄土の光をいただいた、それが一つの力となって、そして苦労の絶えぬこの世間に自分の身を投げ出して、喜んで苦労のできるようにしてくださるところに、我が浄土真宗というものの教えがあるのだということをハッキリと押さえられたのです。



往還の回向と他利利他深義(仲野良俊先生のお話)

第十一願というのは、浄土へ向かうことによって成仏が約束され、また同時に、浄土の光がその人間の上に輝き、そして同時に、その功徳が与えられてくる。浄土へ向かうのは往相です。往相回向。他力によって往相回向が成り立つ。

浄土の光を浴び、また、浄土の功徳が与えられて、浄土と結びつきながら一足一足浄土へ向かってゆく。そういうことを曇鸞大師は往相回向という言葉で明らかにされている。まず第十八願によって無碍という、そのままという、一つのお助けが成就した。その力によって無碍というものが与えられる。また同時に、第十一願によって往相が成り立って、浄土の光と共に功徳が与えられる。穢土から浄土へ向かうのが往相です。穢土にいたときには浄土というものは、これは全く、もう、断絶みたいなものがあります。断ち切られているものがある。穢土から浄土へという場合は、この断絶を超えなければならない。

ところが、一度浄土と直結するならば、それによってまず無碍というものが身につき、浄土の光と功徳が与えられることを通して、今度は逆に、あらゆる世界が浄土でないものはどこにもないという相(すがた)になるのです。穢土の浄土の中に入り込んでくる。穢土から行くと断絶があるけれども、一度浄土に、この断絶を超えて至り着いたならば、今度は、浄土ならざるはなし。穢土は生死の世界ですが、生死の世界も涅槃の世界の中に包まれてくる。浄土ならざるはなし。そういうところに、今度は喜んで、この穢土に向かう。これが還相回向です。

他力によって往相回向が成り立った。そうすると、同時にまた、そこに他力によって還相回向ということが成り立ってくる。還相というのは穢土へ向かう心です。穢土を捨てて浄土へと向かう。穢土を捨てて浄土へ向かうのだけれども、同時に、浄土を得るならば穢土も浄土中に含まれる。そこに、今度は喜んで穢土の中に身を置く、そういう結果が一つ出てくるのです。これが誓ってあるのが第二十二願です。

還相回向というのは、自分が助かるだけではなく、人を助けるというか、そういう方向へ心が向くのです。自分さえよければいいというのではない。自分が助かったら、やはり人も助けようという心に動かされる。仏の心に触れることを通して浄土へ向かう、仏の心に触れることを通して仏の心に動かされてくるということが起こってくる。そういう心が起こったことが本当に幸せなのです。生きるということは、仏の願というものに触れて、それに動かされて如来の願に、穢土において生きると、そういうことになる。だから、願に生きるというのは穢土へ向かう、還相回向の心です。

凡夫が信心を起こすならば、そこに無碍という世界が開かれてくる。無碍というのは何かというと、生死がそのまま涅槃だということ、だから還相できるのです。つまり、穢土も無碍であるというのです。浄土と穢土が無碍であるような心を持たなければ、還相ということは成り立ちません。浄土の心は無碍ですが、浄土の心だけが、どんな世界へも還相できる、あらゆる世界を包んでくるような、そういう心が与えられてくるということでしょう。

還相ということは、人間の意志で還相しようという、そういうものではないのです。むしろ、往相を徹底させることによって、自ら還相というような形をとってくるのでしょう。還相というものは意識的なものではないと思います。知らず知らずに動かされているという、そういうことがある。

凡夫の場合は自利に徹底するのだと。自利に徹底する、往相回向に徹底する、そうすれば利他ではなし、他が利せられる。他利ということが起こってくる。他が利せられる。他を利そうというような意識を超えて、事実として、ちゃんと他が利せられてくる。人を助けようというような意識を超えて人が助かる。

仏さまなら利他はちゃんと成就する。利他は仏にしかない。凡夫の我々には利他は成り立たない。自分が助かっていくということが、それがまた、他をおのずから助けるような働きをしてきて、自分が助かる相によって他の人が助かっていくという、そういうことが成り立つ、それしかないのです。

還相は願としてある。それは非常に大事なことです。還相という願を持たなければ、そんなものは個人主義というか、功利主義の仏教に転落します。願を持つのだけれども、その願を本当に全うしたかったら往相回向に徹せよ。そうすれば、他を利することはできなくても、その相によって他が利せられる。私の助かっていくその相によって他が助かっていく。私が助けるのではない。他が助かっていく。還相に手を出すのではない、還相は願としてある。願は持たなければならない。そして、その願を実現するためには往相に徹する。それしかないのです。

浄土真宗は仏道であると共に、同時に菩薩道だということを曇鸞大師が明らかにされた。還相ということが問題になるのは菩薩なのです。

「仏道、仏道…。」

と、仏道だけを言っておると現実離れしてしまう。菩薩道というところに現実を包んでくるのです。



正定の因(仲野良俊先生のお話)

親鸞聖人は『正信偈』の初めの方に、

「本願の名号は正定の業なり」

と、「仏のお心によってできあがったお名号、お念仏は、それをいただけば必ず助かる」というふうに仰います。ところが、

「お念仏をいただいても助からない。これは一体どうしたことか。」

そこにはお念仏をいただいても助からない何かが、人間のところに一つあるのでしょう。その何かを因と抑えてある。因というのは、いつでもたった一つを因というのです。例えば、ものが生える時に種は一つです。大根が生えるのに種は一つでしょう。けれども、水がいります。日光がいります。肥料がいる。色々あります。それから虫がいないということも縁になる。あることもないことも、ちゃんとそろわなければ、種がいくらあってもなかなか大根は生えません。けれども、たった一つの種が欠けたら、絶対に生えません。

「このこと一つがなかった、もう駄目だ。」

という「このこと一つ」は、やはり因です。そういう大事な本当の根本です。我々が助かる本当の根本です。いかに我々を救うお念仏が与えられていても、この一点が欠けたらもうどうしようもないという因を押さえて、

「正定の因はただ信心なり」

こういわれた。「お念仏に遇ったら助かる」それは間違いないのです。それは間違いないのだけれども、信心という一点を欠いたら、もはや絶対に我々を助ける念仏が、助ける念仏にならないという、その要を押さえてこられた。

「正定の業」というところに曇鸞大師は問題を感じられたのでしょう。それが『往生論註』の初めの方に、自問自答という形で出てきているのです。

「もし無碍光(むげこう)如来の光明が無量であって十方の国土を照らして障り(さわり)がないというならば、この娑婆に住んでいる人間が、どうしてその光をいただかないことがあろうか。いつでも、どこでも、どんな状態に置かれている人間をも照らすというのだから、それなら娑婆にいる人間がみんな照らされているはずだ。照らされていない者は一人もいないはずだ。ところが、それにもかかわらず・・・。」

と、曇鸞大師は問題を出してこられる。あいつが照らされていない、こいつは照らされていないというのではなしに、少なくとも、自分自身が照らされていない。そういう現実がある。そうすると、それはひょっとしたら、

「光が足りないのではないか。」

「光に障りがあるのではないか。」

「光に盲点があるのではないか。」

こういうふうな問いをここへ投げ出しておられるのです。そしてその次に、その問いに対して自ら答えておられる。

「答えていわく、碍(さわり)は衆生に属す。」

そうではない、碍は衆生にある。照らす光に碍はない。照らされない者に碍があると言われるのです。我々の仏に対する疑いというものは、いつもそういうところへ出てくるのです。「仏さまの光が足らないのではないか」というようなことも、つい、ふっと思う。そういうことを曇鸞大師は正直に告白しておられるのです。

「これだけ聞法しているのに、ちっとも分かってこないが、仏さまもそんなに力がないのっではないかな。」

と、ふと出てくる。それに対して、

「答えていわく、碍は衆生に属す。光の碍にはあらざるなり。」

と言っておられる。こっちに問題があるのです。
そこで、これについての例えを二つ出しておられる。初めの例えは、

「例えば、日光四天下に周ねけれども、盲者には見えざるが如し。日光の周ねからざるにはあらざるなり。」

太陽が燦々として世界中を照らしているが、目の不自由な人には見えない。そういう例えです。すると、太陽が世界中を照らしていないということではない。全世界を照らして入るが、目の不自由な人には見えない。そうすれば、それは見えない人の方に障りがあるということでしょう。

また、もう一つの例えは、

「密雲(みつうん)のおおきに注げども、頑石(がんせき)には潤わさざるが如し。雨の潤わさざるにはあらざるなり。」

密雲というのは固まっている雲、雨雲です。とにかく、その固まった雲が雨となってザーッと下へ降ってくる。車軸を流す如くに降っている大雨です。雨はジャンジャン降ってくる。世界中が流れはしまいかと思うほど、ものすごい勢いで降っている。そういう雨の例えです。けれども、石には滲み込まない。どれだけ雨が降ったって石には絶対に滲み込まない。頑石というのは固くなっている石のことです。

これは我々の心を例えてあるのではないですか。先ほどの盲者というのも我々の心を例えたのでしょう。心の問題です。目が不自由な者だから仏の光が見えない。仏は照らしておられるけれども、迷い心が深いために仏の光に遇えないということでしょう。こっちの責任、照らされていない者の責任、それを「碍は衆生に属す」と仰ったのです。

頑石というのは何を例えてあるかというと、曇鸞大師は我執というものを頑石と言われた。人間の堅い固い迷い心です。「わしが・・・」「誰が何といおうと・・・」と言って頑張ります。頑張る心、そういう心を石に例えて頑石というのです。頑固、かたくなな心です。そういう、いわゆる我執の心、自分を頑張る心には仏の心が沁み込むということはありえない。雨がいくらジャンジャン降ってきたって撥ねつける。石に当たれば飛沫(しぶき)になる。

つまり、我執が仏の心を撥ねつけていることを例えられたのです。お念仏をいただいて、それがなかなか正定の業にならないのは一体どこに問題があるのか、それは信心の問題だということなのです。



惑染の凡夫(仲野良俊先生のお話)

浄土真宗の教えというものは、お釈迦さまの教えを、龍樹菩薩、天親菩薩が受け継がれて、これをはっきりと示してくださった。龍樹菩薩はお念仏を易行だと。それから天親菩薩は信心のことを一心であると、こう言って明らかにしてくださった。

その教えに照らして人間というものを、人間といいましても結局自分ですが、自分というものを掘り下げていく。教えに照らして自分を掘り下げていくことなのです。そういうことは曇鸞大師によって初めて出てきた。龍樹、天親菩薩では、信心をいただいていく人間がどういうものかということが、どうもまだハッキリしておりません。

『正信偈』を見ても、龍樹菩薩のところでは信心をいただく人間、お念仏をいただく人間というのは一体どういう人間なのか、そういうことが出ておりません。かろうじて、天親菩薩のところに「群生」という言葉が出ております。「群生を度せんがために」一心ということを明らかにしてくださった。しかし、天親菩薩のお言葉としては、この「群生」という言葉はどこにも見当たらないのです。これは親鸞聖人が「群生」と当てはめて仰ったのですが、その元になる天親菩薩のお言葉を、もし捜すならば「善男子善女人」ということがある。

「善男子善女人」、「男子」とか「女人」とか、人間をそういう性別で呼ぶ場合は、これは「凡夫」ということなのです。凡夫を超えたらもはや性別ということはなくなる。凡夫である以上は、この性別ということがどこまでも離れない。ただ仏法にご縁がある凡夫という意味で「善」という字がつくのです。「善男子善女人」といっても心がけがいい人という意味ではありません。根性の悪いのもいますからね。けれども、仏法にご縁があるから「善」というのです。心がけがいいとか、行いが結構だとか、そういうことではない。いずれにしても、天親菩薩の直接のお言葉でいうなら「善男子善女人」。

ところが、今、曇鸞大師のところへまいりますと、凡夫は凡夫なのだけれども「惑染の凡夫」と出てきます。「煩悩を抱えている」という意味です。煩悩を抱え煩悩に縛られ、煩悩に振り回されてこの生死の世界を生きている、流転している。そういう凡夫だということがハッキリ出てきます。迷いの凡夫、煩悩を抱え、業を作って、そして苦しんでいる、そういう凡夫なのです。ただ、凡夫というのではない。

次の道綽禅師のところへきますと「一生造悪」と言われる。一生ろくなことをしない人間、それが本願のお目当てになる人間です。それから、善導さまのところへくると、「定散」と「逆悪」などという言葉が出てくる。「定散」の方は、これはちょっと心がけようと思っているけれども、心がけが間に合わない、そういう者のことです。「逆悪」というのは、これはもう、とんでもない罪を造っている者です。源信僧都のところへくると「極重悪人」えらいことになってくる。だんだんハッキリしてくるのです。それから「善悪の凡夫人」、これは法然聖人のところです。

そういうふうに、曇鸞大師のところから後は、お念仏をいただく人間というものがどういうものかということが非常にハッキリと示されてくるのです。



惑染の凡夫と生死即涅槃(仲野良俊先生のお話)

「惑染の凡夫」ということがなければ、その次の「生死即涅槃」ということが生きてまいりません。「惑染の凡夫だけれども、その凡夫に信心が起これば…」ということです。「起こす」のではない、「起こる」。そこが非常に大事です。「発すれば」と書いてありますけれども、「起これば」という意味です。というのは、惑染の凡夫などというようなものは、信心を起こすことのできない人間なのです。信心なんか到底起こすことのできない人間。だから、起こるという。

これは結局他力です。

仏の力によって、惑染の凡夫の上に、起こしてみようもない信心が起こってくる。煩悩に振り回されて業を造り、業によってまた苦しんでいる、そういう人間が、いわゆる如来の他力を賜って、そこに信心が起こる。信心が起こるならば生死即涅槃である。

生死即涅槃ということは、分かりやすく言うと「そのまま」ということです。何も言うことがないということです。「即」という字は、これは非常に面倒な字で、生死と涅槃とは一つだという意味でもない。それから生死は生死、涅槃は涅槃と二つだというのでもない。非常に面倒な字です。この「即」というのは、二つはどこまでも二つなのだけれども、生死は生死、涅槃は涅槃と二つなのだけれども、「二のままが一」だということなのです。頭から一つだというのではない。また、どこまでも二つだというのでもない。二のままが一、そういうことを「無碍」という。

生死の世界に生きているのだけれども、そこに涅槃の影が指してくる。何も言わなくてもいいという、そういうものが現れてくるのです。生死のまま涅槃である。生死をやめて涅槃というのではない。惑染の凡夫ですから、煩悩を起こし、業を造り、それによって苦しんでいくのですけれども、けれども、「そのまま」というところに安んずることができる。生死におりながら「無碍」である。



無碍の一道(仲野良俊先生のお話)

『歎異抄』で親鸞聖人は、「念仏者は無碍の一道なり」と仰っています。そこに「無碍」ということが4つ出てきます。

「そのいわれいかんとならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報を感ずること能わず、諸善も及ぶことなきゆえなり。」

無碍ということは、色々のものが障りにならぬということです。障りがあってもかまわない。あっても障りにならない。そういうことを無碍というのです。

人間というものは、色々なものに妨げられ、障られる。けれども、その障りはみんな自分の心が作るのです。何が障りを作るかというと、自分というものが分からない心が障りを作る。自分が分からないということは、自分の業がハッキリと分からないということです。

だから、「お念仏が分かった」「お念仏がいただけた」ということは、端的にいったら、「わが身の業が納得できた」ということでしょう。もう、それ以外にないと思います。それさえ分かればいいのです。我が身の業が分かれば、後は何も言う必要がないのです。

業の分からない人間というのも困ったものでして、色々と障りを作ります。「日の良し悪し」は、業が分からないから、あんなことを言っているのです。業が分かれば「日の良し悪し」はありません。仏滅とやら友引とやら、三隣亡とやら、えらいことを言って迷っています。何やら、棟上げをするのにも暦を見たり、結婚式にも暦をめくって大安を一生懸命に探す。あんなものが大安ではないのです。不安だから大安と言っている。「どんな日でもいい」というのが一番大安なのです。「業にさしまかせて」という、これが一番安らかです。

「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのむ。」

フラフラしないのです。

今から18、9年ばかり前のことですが、あるご門徒へお参りしましたら、

「ご院家さんもだいぶ年が寄られましたな。お幾つになられますか。」

と尋ねられました。

「私もだいぶ年が寄って、今年で42になります。」

と言いましたら、

「へぇ、100ですか。」

「無茶言うな、この顔が100に見えるか。」

「いや、100じゃありません、厄です。」

と言う。

「ご院家さん、42というたら、男の大厄ですぞ。」

と言うのです。初めて聞いてびっくりした。

「それはどういうことですか。」

と聞いたら、

「気をつけなさい、この年中にひどい目に遭うかもしれません。」

と言うから、

「ああそうか、ひどい目に遭うのか。それなら安心した。どうせ、ろくなことをしておらんのだから、深い業を抱えておるのだから、ひどい目に遭うのは当たり前。それはもう、覚悟をしておるのだ。」

と答えましたら、その人が、

「あんたみたいな人にかかったら、厄もかないませんな。」

と言っておったのです。

私には日の良し悪しも、方角の良し悪しもないのです。何故ないのだろうか。ある人にはある、何故なるのだろうか。そこが大事な点です。人間はね、大事なものがないと、しょうもないものがある、ガラクタがある。反対に、大事なものがあれば不要なものはない。そういうものです。必ずそうなっている。要らんものをもっている人は大事なものを持っていない。そして、要らんものばかりを持っている。大事なものが一つあると、もう、要らんものはなくなる。

その大事なものは何か。そうです、お念仏です。お念仏というのは、我が身の深い業にうなずいているということです。お念仏がいただけたということは、そういうことです。良いこともあれば、悪いことも起こりますよ。業で生きているのですから。

私は思うのですけれども、長生きということも非常にありがたい。長生きしているからして、次々と色々のことにあいます。損得で生きているのならば、もっと得な目にあわなければならないけれども、そんな得な目には余りあいません。「長生きしたばっかりに、こんな目に遭わなければならん」と言って泣いておった人がいた。それなら、ちっとも得ではない。そういう人もいます。それは何かというと、やはり業で生きておられるからです。

若い人にはまだ業が分からない。どれだけ業を抱えているか分かりません。60すんだら、段々分かってきます。我が身というものがどれだけ、いかに業が深い奴かということが段々分かってくる。それはありがたいことです。自分が知らされる。それで、蓮如聖人は「長生きは法の宝」と言われる。仏法がますます深くいただけるのです。業で生きているのだから、ますます深い業がだんだん出てきます。「ああ、こんな業をもっておったのか」ということが、次から次と出てきますから、そうすると、業の深い自分だということが知らされることによって、いよいよお念仏が明らかになってくる。

我々は、何でもひどい目にあうと、「あれのせいだ」「これのせいだ」と言うけれども、そうではない。みんな、自分が蒔いた種が自分に返ってきているのです。それさえハッキリしたら、何も言うことはないはずです。それがお念仏の生活、無碍の一道なのです。

生死のまま、そこに、そのままと言える、それが生死即涅槃です。「涅槃」ということは「寂静」ということですから、

「ああでもない、こうでもない。」

という心が治まるのです。色々の目に遭うのです。色々の目には遭うけれども、

「なんでこんな目に遭わなければならんのか。」

「何の因果で、こんな目に遭わねばならんのか。ああ。情けない。」

ということがないのです。深い深い業を抱えていますから、その業に応じて色々なことは起こってくるけれども、それに圧迫を感じるということがない。悲惨を感じるということがない。良きことも悪しきことも業報にさしまかせて生きていける。それが、

「生死すなわち涅槃なりと証知せしむ」

ということです。「証」とありますから、それは一つの悟りです。ご信心にはそういう悟りの意味がある。そのままという、一つの大きな悟りです。そのまま何も言うことはなかった、そういう一つの仏の智慧です。仏の智慧がお念仏をいただいた人間を動かしてくる。非常に安らかに、しかも、明るく生死の中を歩いていける。そういうのが無碍の一道です。



無量光明土(仲野良俊先生のお話)

光明土は阿弥陀仏の世界です。阿弥陀仏の世界を無量光明土であると言うこともあるのですけれども、しかし無量光明土ということになると、これは色々な仏さまがおられますから、あらゆる諸仏の世界を「無量光明土」と、お経の中ではそう言ってある。諸仏の「諸」を「無量」と言い換えてあるのです。親鸞聖人は、ハッキリ「土はまたこれ無量光明土なり」と『教行証文類』真仏土巻の中に仰っておられますので、阿弥陀仏の世界が無量光明土、無量の光の世界だということです。それでいいのですけれども、その元の意味は諸仏の世界なのです。諸仏は数限りなくおられますから、諸仏の光明の世界が無量にあるという意味で、無量光明土。こういうふうに使われているのがお経です。

この無量光明土という、あらゆる諸仏方の光ある世界というものは、これは、阿弥陀さまの光によって輝いているのですから、したがって、諸仏の世界であるままが、実は阿弥陀仏の世界であると、こういうふうに親鸞聖人は受け取られて、阿弥陀仏の国のことを無量光明土といってあるのです。



「必至」ということ(仲野良俊先生のお話)

「至」という字を涅槃の世界へ完全に到達するといふうに受け取るならば、これは成仏ということです。そうなれば、やはり純粋な未来というか、約束というような形で考えられます。それを、もうちょっと積極的に考えると、何か、浄土と直結しているというような意味がそこに考えられるのです。信を得るならば、直ちに浄土と直結する。行き着いてしまうというのではない。浄土と直接に結びつく、そういうことも表現してあるのです。成仏については約束だけれども、信をいただくならば、ちゃんとそこに浄土が結びついてくる、浄土とつながる。そういう意味で「必至」という言葉があるのです。

両方あるわけです。時間的には約束。約束の場合は成仏です。これが直結ということになると往生。即得往生。

往生という言葉が、浄土との直結を表わした言葉です。浄土と直接に結びつく、浄土と直結するから、そこに浄土の光が与えられ、また浄土の功徳というものが与えられてくる。直結という形で浄土へ向かうから、浄土の光が与えられ、浄土の功徳そのものが人間の上に与えられてくる。間違いなしに仏になるということを、第十一願には、「正定聚に住し、必ず滅度に至る」といってある。ここでは「必至無量光明土」といわれる。滅度が単なる滅度でなしに、単なる涅槃の世界でなしに、「信心によって開ける世界は、本願の浄土なのだ」ということです。

それは何かというと、信心を与えようというところに如来の本願があるのです。したがって、その如来の本願に応え本願を受け取れたのが、それが信心です。そこに本願の浄土が開ける。そういう意味で、ただ滅度といわずに「必至無量光明土」といわれている。第十一願のところでは滅度といっているけれども、ここでは信心によって開かれるのだということをハッキリさせるために、ことさらに「無量光明土」と表わされたのです。本願にうなずくということは、結局、自分が分かるということなのです。他のことではありません。自分が分かるということです。それが信心なのです。

我々は、仏法というと、仏さまが分かるというような勘違いをよくするのですけれども、迷っているような人間の分かる仏さまならば、本当の仏さまではないでしょう。間違った心が捉えたようなものは、すべて間違いです。

鎌倉仏教の開祖がすべて比叡山へ登って、何とかして仏さまを分かろうとして刻苦勉励されたのですけれども、どの方も分からずじまいで、とうとう山を下りてこられた。それで比叡山の教えが間に合わないことがみんな分かったのでしょう。

親鸞聖人の場合は、山を下りられて法然聖人のところへ行かれたわけです。そして、何が分かったかというと、仏さまが分かったのではない、仏さまの心が分かった。本願が分かった。仏さまは分からなくても、仏さまの心は分かるのです。仏さまはこちらから行ったって届かないのです。けれども、ありがたいことには向こうからこっちへ来ている、回向されている。本願は、我々のところへ来ています。仏の心は我々に注がれている。だから、我々はそれにうなずくことができるのです。

仏さまは私たちに「汝自身を知れ」「自分に目を覚ませ」と、いつも願っておられる。それが本願でしょう。第18番目の願です。「汝自身に目覚めよ」というのが仏の心です。その心がいただけたということは、我が身に目が覚めたということでしょう。そして本願の心をいただいたというところに本願の浄土が開けてくる。

そういう意味で、お経の本願のところでは「必至滅度」とありましたけれども、単なる滅度ではない。本願の浄土なのだということをハッキリさせるために「無量光明土」と言い換えてあるのです。